* 31 *  銘・十六夜




「秋子さん、これは……」

 入ったことのない秋子の部屋の押入れの中に、神棚があった。
 そこに飾られていたのが、この日本刀だった。

「銘は『十六夜』。何故か作者は不明です。水瀬家に代々伝わってるものです」
「水瀬家に……」
「勿論、相沢さんの家にもありますよ。姉さんのところには扇子があります」
「扇子?」
「はい。不思議な霊力が込められているらしいです」

 そう言われて、祐一は刀をしげしげと見つめた。

「その霊力っていうのは、具体的にどんな力なんですか?」
「それが……判らないんですよ」

 祐一の言葉に、秋子がはにかみながら言う。
 何でもお見通し、といった印象が強い秋子がそういう反応を取ることに、祐一は意外な印象を受けた。

「どうしてですか?」
「最近で使えた人が居ないからなんですよ。勿論、私も」
「それじゃ、俺も使えるかどうか判らないじゃないですか」
「やってみなきゃ判らないですよ」

 笑顔で刀を渡す秋子。
 言われるままに刀を手に取り、鯉口を切った。
 青白く透き通った刀身は、不思議と目を惹きつける。太陽の光にかざすと微かに光って見えるのがその一因だろう。

「……不思議な刀ですね」
「特に……普通の日本刀だと思いますけど」
「えっ?」

 思わず、祐一はもう一度十六夜を眺める。
 やはり、鋼以外で出来ているように祐一には見えるのだ。

「普通ではないように見えるのなら、もしかしたら祐一さんには使えるのかも知れませんね」
「これが……」

『いえ、それでいいんですよ』

 栞の言葉を思い出す。

「……それだけじゃ、駄目なんだ」
「じゃあ、頑張ってくださいね、祐一さん」
「……はい」

 何をどうすればいいのか、手探りで見つけなきゃいけないけれど……祐一は、立ち止まる訳にはいかなかった。
 土曜日まで、時間がない。
 剣術を三日で習得するのは不可能だ。だからこそ、この刀の霊力を知り、使いこなす必要がある。

「どこで練習しよう……」

 祐一は刀を握り、二階へ上がっていく。

「あ、そうそう祐一さん」
「はい?」
「まだ手入れとか判らないでしょうから、汚れたり定期点検の時は渡して下さいね」
「あ……はい」

 汚れたり……というのは、有事のことを言っているのだろう。
 それに思い当たった祐一は、今一度気が引き締まった。

(俺は……栞の助けになりたい)

 気合に満ちた祐一の背中を見て、秋子は微笑んだ。
 その微笑の理由は、誰にも判らない。




* 32 * 




 決戦は噴水の公園と言ったが、もしかしたら場所が悪いのではないかと栞は考えていた。
 かなりの音が出るだろうし、周りの民家に邪魔ではないだろうかと。
 北川はともかく、他人に迷惑を掛けるのを良しとしない栞は、別の候補地を考えていた。

「……?」

 根雪が不思議そうな目で栞を見る。
 今、『お友達』全員で乱取り組み手をしていたのだ。
 栞が縁側に腰掛け、勢ぞろいした『お友達』が庭で互いの技を駆使してぶつかっている。

「あ、ううん、なんでもないの」

 栞は笑顔で返すと、根雪たちは乱取りを再開した。
 それをぼーっと見ながら、栞は考える。
 広くて平坦で周りに迷惑をかけない場所。
 色々考えていた。
 どうやって勝つか。
 目の前のこの子たちを、どうやって戦いに活かし、生き残ったまま相手を倒すか。
 栞と北川の力は、召喚するという点を除けば両極端にある。
 栞の『お友達』に対して、北川の式神は北川個人の能力に影響し成長することがないが、代わりに即戦力となる為に相手に手札がばれないという利点があるのだ。
 何故そういうことが判るかというと、出された式神が全部違うものだったことからの推測である。
 それで、何が問題かというと……つまり、作戦を立てにくいのだ。
 何が出てくるか判らない……あっちが予め対策を立てられるのに対して、こちらは陣形の見直し程度しか出来ないのだ。
 しかも重複しないことを主眼に置いたので、戦力を分散させる事は殆ど出来ない。

 ふと根雪たちを見ると、各々の技は磨きを増していた。
 根雪の盾。
 牡丹の槍。
 氷室の家。
 氷南の矢。
 百年の鎧。
 各々が力を増し、日常生活に余るほどだった。
 ……そう、普通の生活を送るには大きすぎる。
 それも栞は疑問だった。
 日常を取り戻すために、どんどん非日常に入り込んでいることに。
 栞はこれまで、『折角の出会いを消したくない』という一念でやってきた。
 しかし、仮に勝ったとして、果たしてその後一緒に居られるのかどうかが心配になってきたのだ。
 ……最初はそんな事を考えていたはずではなかったのに、何故か思考が脱線していた。
 まさに今、栞は疑問が疑問を呼ぶ思考の沼にはまっていた。



 そんな悩んでいる栞の姿を、姉は縁側の対にある扉から見つめていた。
 ここ数日、栞は目に見えてその笑顔を見せる回数が減った。
 いつも思い詰めていて、警戒している。
 戦いだけをいつも気にして……余裕のない生活を送っているのが、とても心配だった。

<誰か……>

 ふと、香里の耳に何かが入った気がした。
 物音かも知れないが、気になってしかたないほどの印象を持った音だった。

(……声……?)

 その後注意深く耳を澄ましてみたが、何も聞こえなかった。





* 33 *  香里を呼ぶ声




 夕食を摂り、風呂に入っている時も、香里はさっきの感覚が気になっていた。
 理由は定かではないが、何故か……しかし確かに、香里は親近感を感じていた。自分と非常に近しいものを持った、そんな融和する雰囲気のものだったのだ。
 最近栞と上手く行かず、どこか浮いてしまったような……料理でいえば分離してしまったような、そんな感じで一杯だった香里の心に、静かに、そして綺麗に入ってきたのだ。
 普段警戒心が強くあまり他人に心を開かない香里でも、素直に開けてしまうような……そんな、不思議な感覚だったのだ。

「……着替えを持ってくるのを忘れたわ」

 ぼーっとしすぎて、着替えさえ忘れていたらしい。
 というか、手ぶらで脱衣所に入るわけだから、普通自然と気付く筈だが……それほど香里の気分が重くなっていて、それを少しでも逸らしてくれたものに対して興味を覚えていたかの証拠だろう。

 仕方がないので、バスタオルを一枚纏っただけの格好で脱衣所を出ると、香里は足早に二階へ上がった。
 別に見られること自体は対象が家族でしかありえないのだからあまり抵抗はないのだが、まだ春になって久しくない夜は薄手の服一枚でも肌寒いのだ。
 バスタオルがはだけないように気をつけながら階段を上りきると、まっすぐ自室へ向かう。

「栞、上がったわよ」
「あ、うん、今行くよ」

 栞に一声かけつつ、自室のドアノブを回す。
 こんな姿を栞に見られると、いつその彼氏にまで回るか判ったものではない。
 彼は人をからかうことになると躊躇しないから、性質(たち)が悪い。貶している訳ではないが、少しむっとする。

「ふぅ……」

 無事に自室に着くと灯を点け、箪笥へ向かった。
 その中身は、下着と寝間着が所狭しと並んでいた。華美なものやパステル系のものは一切無く、落ち着いた種類のものが多い所が彼女の性格をよく表しているだろう。
 適当に見繕って身に付けると、急に眠気が襲ってきた。
 普段はこれから受験勉強を始めるのだが、どうやらそれほどの体力もないらしい。
 いつもの状況に戸惑いながらも、急激な眠気に抗いきれず、香里の体はベッドに吸い込まれていった。

 ……そして、意識は深く堕ちていって――



 気がつくと、香里は屋上に居た。
 抜けるような青空。
 柔らかく照らす太陽。
 周りから聞こえる喧騒から察するに、昼休みだろうか。
 何でこんなところで寝入ったのだろう――などと考える前に、香里はこれが夢であることに気がついていた。
 明晰夢という奴だろうか。

 そんな事を考えている香里の耳に、ある音が入ってきた。
 ……音楽だった。

(笛の音……?)

 フルートの様な、横笛の音だった。いや……もしかしたら、和楽器かもしれない。
 その音につられて、香里は屋上の出口を目指した。
 ……もし、このまま眠りから覚めてしまって意味深なまま途切れてはたまらないと、香里は急いで扉を開けた。

「あっ、やっと会えましたね」

 そんな香里を出迎えたのは、レジャーシートをリノリウムの床の上に敷いて座っている、一人の女生徒だった。




* 34 * 夢の中、浮世(ゆめ)の中




「あなたは……えぇっ?」

 香里はすっかり混乱する。
 自分の記憶が正しければ、彼女は今年の春……事件に巻き込まれ意識不明の重体のまま卒業した、倉田佐祐理だったからだ。
 夢の中に、大して接点も無い人間が出てくればそれは驚く。しかも、性格どうこうの前に存在を知識で知っている程度の相手である。
 言葉を詰まらせながら、香里はにこにこ微笑んでいる彼女を見つめた。
 彼女のその後は知らない。
 で、仮に彼女の命が尽きようとしているとして……何故、自分のところに現れるのだろうか。
 恨みを買われるような事をした覚えはないし、わざわざ頼られるのも不自然だ。

「あははーっ、まぁ、困惑するのも仕方ないんですけど……。実は、あなたにお願いがあってやってきたんです」
「……えっと……」

 何を話そうか迷っている香里に、佐祐理が早合点して話し出した。

「あ、すみません、まだ自己紹介がまだでしたね。倉田佐祐理です。それで、今回佐祐理が何故ここに来たかというと……」
「ちょ、ちょっとちょっと。少し、話すのが早いです」
「でも、早くしないと夢が終わっちゃうんですよ。人間が見る一つの夢の時間は、睡眠時間に比べて少ないですから」

 最初香里が彼女に抱いていた『せっかち』という印象はあっさり覆されていた。
 どちらかと言うと配慮があり、自分と気が合いそうだった。

「それで……何故私の夢に?」
「はい……簡潔に話すと、佐祐理は今、いわゆる植物状態なんです」
「それは噂で聞きました。何でも、事故に巻き込まれたとか」
「……事故ではないんです」
「えっ?」

 噂と違うことを聞くと、その先が気になってしまうものである。
 当然、香里もその先を促した。

「それはおいおい話すとして……時間も短くなってきましたから、要点を述べます」
「はい」
「佐祐理の事を知っているという事は……佐祐理の親友、川澄舞の事も知っていますね?」
「はい、名前と姿だけは」
「それで、お願いなのですが……舞を救って欲しいのです」
「救う?」

 突拍子も無い話に、香里が首を傾げる。
 一方佐祐理の方も予想していたのか、すぐに説明を始めた。

「舞は、今も夜の校舎で自分と闘っています。佐祐理が怪我を負った事も、全て自分の責めにして……そんな舞は、見ていられません。だから、助けて欲しいんです」
「頼ってくれるのはありがたいんですが……どうすればいいか……」
「佐祐理自身は外に出ることが出来ませんが、一つだけ贈り物をさせてもらいます」
「贈り物?」
「それが……あなたの……役に……」

 佐祐理の言葉がぼやけ始めて、香里は反射的に意識を集中した。
 しかし、夢の中であまり集中すると、覚醒してしまって夢からは遠ざかるのだ。
 周りもぼやけ始め、そして……夢の世界は一瞬にして瓦解した。



「ん……」

 香里は意識を現世に引き戻した。顔にかかる朝日が鬱陶しい。
 暫くぼーっとした後、慌てて体を起こす。

「……」

 夢の中の事を反芻して、それが信じられるものか考えていた。
 普通ならば、到底あり得ることではない。前の香里ならば、全く意に介する事はなかっただろう。
 ……しかし、今の香里は違った。
 栞という、前例があったから。
 ……だから、机の上に見慣れない横笛が置いてあったとしても、特に何の驚きも無かった。




* 35 *




「……栞も、最初はこんな気分だったのかしらね……」

 まるで、夢の中にいるみたい……と考えて、誰かが「この世は長い夢の中」と言っていた気がするな、とつい思ってしまいくすりと笑った。
 言い得て妙である。

「さて、これはどの様な効果があるのかしら?」

 香里は少し考える。
 周りにある不思議な道具は、『お友達』も、式神も……どちらも召喚系の『魔法』を行使している。
 だとすれば、これも召喚系だろうか。それとも、違うだろうか。

(……無意味ね)

 そう結論付けて、香里は笛を手に取った。
 所謂、篠笛という奴だった。
 見かけによらないと思いつつも、構えて口を付ける。

(これじゃ鳴らないわね……じゃあこうして……)

 幽霊とはいえ、これでも音楽の部活に身を置いていた香里は、吹き方を変えつつ音を出そうとした。
 指も、ただ持っているだけで穴は塞いでいない。
 そして勘に当たったか、かすりの音ではない伸びのある音が流れた。

「ふーん、八本調子……流石に古典調じゃないわね」

 調子は笛の調のこと、古典調とは西洋の音階に合わせていない日本独特の音階調のことである。おそらく、普段は西洋音楽に親しんでいる人なのだろう。
 確かに代議士の娘ならば、少なくとも香里よりは社交的なものに詳しいのだろう。

(……まぁ、親しんでいる、っていう点では同じか)

 そう考えると、香里は笛を置いた。
 こんな朝っぱらから笛など吹いては、家人が怒るだろう。
 脇に袋もちゃんと置いてある。

「用意だけはいいわね。……それにしても、高級そうな笛……」

 人によっては「古臭い」と評価を下すだろうが、適度な古さと身の締まった重さが安物ではないことを印象付ける。
 それだけに、手入れも大変そうなものだった。

 さて、香里には一つしなければいけない事が出来た。

「……練習する場所を見つけなきゃ」

 そう呟きながら、香里は鞄の中に笛を入れた。

「さーてと、朝ご飯の前に栞を起こさなきゃ」

 きっと彼女は、まだ眠りの中だろう。
 昨日もおそらく、遅くまで絵を描いていたのだろうから。

 栞の部屋まで来て、一応ノックする。

「はーい」

 扉の向こうから返事がして、香里は驚愕した。
 そのまま扉を開けて、その姿を確認する。

「どうしたの、お姉ちゃん?」
「……いえ……起きてたのね」
「うん。何か目が冴えちゃって。お姉ちゃんは?」
「あたしは、いつも通りよ」

 香里は穏やかに微笑んで、そのまま部屋を出た。
 そして、そのまま階段を下りる。

 香里は動揺していた。
 あるはずないと思っていた返事が来たからではない。
 ……部屋の中の人間が、一瞬栞に見えなかったから……だった。




* 36 *  北川と優希 水曜日昼




「……で、だ」

 北川は口を開いた。

「お前が真琴の兄貴だって?」
「稲倉優希、と人間に対しては名乗ってる」
「人間以外には?」
「人間には理解出来ません」

 前にいる不信人物に目をやりながら、北川はため息をついた。
 今日は水曜日、優希が真琴に会いに来た翌日である。
 真琴にそうしたように、北川が帰ってくるのを見計らったようにして(いや、実際見計らったのだが)、平然と北川の部屋に侵入して来たのだ。

「……用件は?」

 下らない事を話した、と言わんばかりの切り替え方で、北川は話を進めた。
 この稲倉優希という男、祐一とは別の意味で振り回されそうだった。

「真琴を拾ってくれたことに対する礼と、挨拶の為に」
「その割には窓からずかずかと入ってくるんだな」
「玄関から入ると決めたのは、人間であって僕らじゃない」

 これだから人外の者は、と冗談を言おうとしたが、問答無用で狐火が飛んできそうなので言わずにおいた。
 こちらの予想を遥かに超えた返答が来るのは、はっきり言って精神衛生上良くない。

「で、真琴が勧誘したそうだが……」
「それも、話に来た」
「ふむ」

 漸くまともな話が出来そうなので、北川は本腰を入れた。

「僕が予定を切り上げて早く下りてきた理由が理由だ、こちらに付くのは約束するよ。ただ……」
「ただ?」
「まだ、僕がお世話になっている人には話していないんだ」
「何で?」
「まさか、帰ってきて早々言う訳にもいかないだろう? どう言おうか悩んでいるうちに今日になってしまったんだ」
「で、いつ言うつもりなんだ?」
「早ければ、今日にも。というか、今から連れてくるよ」
「……は?」

 北川潤、思考停止。
 別回線では、「妖狐と関わってからよく止められるなあ……」などと考えていた。

「口だけで説明するよりも早いと思って」
「……いや、お前の存在を理解してるんだったら口頭で充分な気がするが」
「お互いを早く知るのはいいことだと思うけど」
「早すぎるのは良くないと思うんだが」
「まぁまぁ」

(……こいつは結局、何をしに来たんだ?)

 不意に真琴の方へ目をやると、別段変わった様子もない。つまり、これが普通ということだ。
 妖狐は皆こうなのか、と北川は少しげんなりした。

「じゃあ、今からそいつがうちに来るってことだな?」
「うん。美汐にも、これから帰って伝えるんだけど」
「……みしお? もしかして女の子なのか?」
「そうだけど?」

 優希の言葉を聞いた途端、北川の動きが止まる。
 何せ自分の部屋に女の子を入れるのなんか、初めてである。
 動揺を通り越して、固まってしまったようだ。

「……大丈夫?」
「あ、ああ……そうか。いや、平然と『会わせる』なんて言ったから、つい男だと思ってしまった」
「女だと何か不都合があるのか?」

 ……価値観が違う奴と話をするのは疲れる、そう北川は思うのであった。




* 37 *  北川と美汐 水曜日夕




「……」
「……」
「……」
「……」
「……なんで、どっちも話さないの?」

 耐えかねて、真琴が突っ込んだ。

「……いや、何をどう話せばいいやら……っていうか、話すような事がそもそもないんだ」

 北川が口を開く。
 それはそうだ、むしろ、状況を説明するくらいなら真琴や優希の方が向いている。
 どちらかというと北川は巻き込まれた方であって、首謀者ではない。
 そもそも、真琴が率先して話し出すべきではないのか。
 色々思うところがあったが、まあそれだから真琴なんだろうな、と北川は一人で納得した。
 ちなみに、優希は既に居眠りを始めている。

「とりあえず、一通りは教わりましたが……それで、つまり私に参加しろ、そう仰りたいのですか?」

 律儀に返す美汐。
 その言葉には、暗に否定の意が込められている様に感じられる。

「……嫌ならそれでいいんだ。強制じゃない」
「そうなんですか?」
「稲倉が手伝ってくれるなら、それだけで優勢だからね。これ以上不思議な道具さえ、出てこなければ」
「不思議な力……例えば、霊力や式神ですか?」
「ん……まぁ、そんなものかな」

 実際式神を使っている北川の微妙な返事に小首を傾げながら、美汐は続ける。

「私も多少は嗜んでいますが……しかし学業を優先している為、修行を怠っているのでまともに扱えません」

 そう言いながら、鞄から折り紙と長方形の和紙――札を出した。
 ゆっくりと鶴を折り終えると、札を折鶴の下に敷き、何かを呟いた。
 すると――折鶴が動き出し、小さな翼を羽ばたかせながら静かに飛んだ。

「――私が出来るのは、この程度です」

 そう美汐が言うのと同時に、折鶴は床へ落下した。
 様子を見ていた北川が、口を開く。

「……素で、こんなこと出来るのか……」
「まぁ、神社の娘だからな。かなり古くからある神社で、祀ってる『神様』の性質があれだ。だから代々受け継がれてきた血の中に少し妖狐の血も混ざってる」

 いつの間にか起きた優希が説明する。
 札を仕舞った美汐が、北川に尋ねた。

「それで……私に何をお求めになるおつもりですか?」
「えっ……?」

 最初の会話から断られると思いこんでいた北川は、驚きの声を上げた。

「急な話ですから、結論は明日お伝えしたいと思います。しかし、その前に、北川さんが私に対して何を求めているのか解らなければ、判断する基準が判りません」
「そ、そうか……」

 心持ち身を正しながら、北川は自分の事を伝えた。
 式神のことや、自分の性格のこと。
 この件に関して感じている、戦略以外の事も、すべて。
 相手が全てを聞いてから判断すると言った以上、こちらも全て話さなければ失礼だ、そう北川は判断したからだ。

「――だから、天野さんにはオレの支援をして欲しいんだ。……勿論、やってくれるなら、ってことだけど」
「そうですか……呪いの類ですね」
「まじない? いや、そうじゃなくて……」
「いえ、現代で言う呪(のろ)いのことを指します。知られている言い方で言えば、言霊でしょうか」
「言霊……」
「古来から、言葉には相手を縛る力があると信じられてきました。……例えば、北川さんは『北川潤』という名前で識別され、判断されていますが、それは同時に『北川潤』として存在が確定され『縛られて』いるという事です」
「……なんか難しいな」
「解ってしまえば、どうということはないのですが……まあ、そういう意味です」

 北川は首を傾げながら、「解ったような、解らないような……」と呟いていた。

「じゃあ、天野さんは、その『縛る』方法を知っているってこと?」
「あまり、強くはありませんが。それでも、感覚の鋭くなっている戦闘中には効果があると思います」

 美汐はふと、変な感覚に囚われていた。
 聞いた時は、そんな事は絶対嫌だと思っていたのに……こんなに詳しく話しては、まるで参加することが前提のように聞こえる。

「逆に、美汐が僕たちの祝詞を詠んでくれれば僕たちも強くなれるんだ」
「のりと?」
「神様を賛美する言葉です。キリスト教で言えば聖歌にあたるでしょうか。それを詠むことで、その神様の加護を得る事が出来ます」
「で、その神様って、僕たちだからね……一応」
「一応なのか」
「だって、自覚ないし」

 もっともだった。

「……そういえば、動物は神様の遣いだって聞いた事があるけど……天野さんの神社は特殊なんだね」
「そうですね……。確かに、実際に祀っている神はものみの丘の妖狐です。普通は人の化身を取った神か、ご神体に宿った神を祀っていますが、うちは元々人に化ける妖狐を鎮める為に建てられた社なので」
「その割には、よく出てきてるじゃないか」

 実際、この部屋に二人――二匹もいる。

「だって、そんなの人間の都合であって、こっちは全然気にしてないからねえ……」

 優希が面白そうに笑う。
 確かに意味がなさそうだが、これでも妖狐が沢山出た年は大騒ぎになり、御霊祭りに発展したこともある。
 古代の人々は、人外のものに対して畏れを抱いていたのだ。

「ん……もうこんな時間だ。そろそろ、帰った方がいいんじゃないか?」
「……そうですね」
「うん」

 北川が気付いて指摘すると、美汐と優希が同意する。
 随分と長く話し込んだようだ。

「それでは、返答は翌日」
「ああ。じゃあ、そのときは稲倉を寄越してくれ」
「僕は間者ですか」

 玄関に至る間そんな会話をして、門の所で別れた。

「……ふぅ」

 北川は空を見上げた。
 最初はあの小さな狐との小さな出会いだったのに……どんどん大きくなっていく。
 その大きさに、北川は潰れそうになる。
 自分の決断は本当に正しかったのか。
 そして、どちらの正義が相手を折るのだろうか。
 その時、自分は満足出来るのだろうか。

「今更振り返ってる時間はない、か……」

 空には何も知らない星が、ただ瞬いて輝いていた。




* 39 *




 夕食後、祐一は再び刀を抜いた。
 相変わらず、青白い神秘的な色を含んだ鋼色をした刀身が、祐一を惹きつけてやまなかった。

「霊剣、ってことはやっぱり斬るためのものだよな」

 普通霊剣といったら昔用いられた剣(つるぎ)なのだが、これは所謂日本刀である。
 迫力というよりも繊細さといったこの刀は、おそらくは戦国時代、いや江戸以降に作られたものだろう。

「何でも斬れる、って奴か?」

 そう呟きつつも、家具を壊してはたまらないのでじっとしたままの祐一。
 他の人間には普通の刀に見えているのだから、やはりそれなりに手入れされて、普通の日本刀並みに斬れるのだろう。

「……確か、理由がないと携帯どころか持ち運びも出来ないんじゃなかったか?」

 おぼろげな頼りない自分の知識を引っ張り出しながら、祐一は独りごちた。
 少年Aとして逮捕されるのは勿論、家宝であるこの刀も没収されてしまう。

「祐一」
「わっ!」

 右手の扉から急に話しかけられ、思わず祐一は刀ごと体を引く。
 声の主は、名雪だった。
 髪が湿ってまとまっているので、風呂あがりだろう。

「な、なんだ?」
「うん、お風呂空いたから呼びにきたんだけど……大変」

 名雪の目線は、祐一から若干左にずれていた。
 足の向きが名雪と同じ祐一から見ても、左の方である。

「あ」

 思わず引いた刀が、ベッドごと鞄を貫いていた。
 勿論、その柄を握り締めているのは祐一である。

(そういえば、鞄をベッドに放り投げたまま忘れてた……って違う、問題そこじゃない)

 フリーズしかかった頭を振ると、祐一は状況を整理した。
 ……というか、考えるまでも無く、祐一が刀で鞄を貫いている。以上。

「やばいな」
「うん」
「塞がらないかな、何も起きなかったように」
「……それは、無理かも」

(確か、これは霊剣だったな)

「念じてみれば、何とか」
「栞ちゃんのアレじゃないんだし」

 名雪の中で、栞のスケブはアレ扱いらしい。
 まあ、色んな意味で際物的だが。……いや、世界の混乱という意味で外道か。

「いや、大丈夫かも知れない。もしかしたら、演劇の剣かもしれないし」
「思い切り貫いてるよ……」
「実はこれは錯視なんだ」
「作曲は?」
「お前」
「わたし、音楽はそんなに得意じゃないよ」
「確かにリズム感なさそうだな」
「そんなことないよ〜」

 途中からすっかり漫才と化していた。
 きっと、香里には「相変わらずね」と言われるだろう。
 そして……。

「……どうしたの?」

 突如固まってしまった祐一に、名雪が心配そうに声を掛ける。

「本当は……こんな中に、香里や……栞も居たはずなんだよな……」
「……うん」
「それで……北川もその中にいたはずなんだ。だから、全てを元に戻すためにも……早くこの争いを止めなきゃならない」
「うん」
「……栞を巻き込んだのは俺だ、さっさと始末付けなきゃな」

 あっさりと片付ける、というような節の祐一に、名雪が心配そうな声で訊ねる。

「北川くんは、いいの?」
「え?」
「北川くんは、独りなんじゃないの?」

 名雪は、祐一よりも長く北川といる。
 だから、どうしても躊躇ってしまうのだ。

「……あいつも、解ってくれるさ」
「でも……」
「俺もあいつも、自分がやりたいようにやって、それでぶつかってるんだ」
「それでも……北川くんにだって、大切なものの為に……」
「どっちが深刻だとか、正義だとか、そんなのは関係ない。ただ、勝った方がその想いを果たせる」

 祐一の考え方は、平和主義者の名雪には合わないかもしれない。
 けれど、世の中はそういう風にして回っている。

「俺は栞を守る。もう、それ以外考えない」

 祐一は刀をベッドから抜いて立ち上がった。
 そして、静かに納刀する。

「まあ、お前は何も考えるな。わざわざ参加する必要はないさ」

 そう言って、祐一は振り返りつつ名雪に微笑みかけた。
 名雪は浮かない顔をしていたが、それでも祐一に微笑みかえした。

「うん。……自分のことは自分で決めるよ」

 本当に静かに、名雪は言った。

「え? 後の言葉が聞こえなかったんだが」 
「内緒」
「名雪のいやしんぼ」
「わたし、そんなんじゃないよ」
「じゃあ、秘密主義」
「ひどいよ……。しかも、普段祐一の方が秘密主義でしょ?」
「そうでもない」
「そうだよ〜」

 久々に、ゆったりした暖かい時間が流れる。
 こんなぬるま湯の様な空気の中に栞を早く入れてやりたい……そう思う祐一だった。




* 40 *




 祐一が異変に気付いたのは、たっぷり風呂につかって上がってきてからだった。
 その異変とは……端的に言えば、あるはずのものがなかったのだ。
 泥棒に入られたのだろか。
 いや、違う。
 何故ならば、それは泥棒では盗めないものだったからだ。
 つまり――。

「……傷が、無い」

 そう、さっき祐一が付けた筈の、ベッドと鞄の刺し傷がないのだ。
 風呂場の前で一人ごちていたから秋子さんかとも思ったが、こんな短時間で跡形もなく修復出来る筈も無い。

『塞がらないかな、何も起きなかったように』

 そう思っていたのを思い出して、祐一は反射的に刀を見た。
 十六夜は相変わらず静かな佇まいを見せ、何もしていないと主張しているようでもあった。

「まさか……なぁ……」

 信用できないけれど、あり得ないことではない。
 祐一は近頃、そういう事態に慣れ過ぎていた。
 無言で十六夜を取ると、祐一は静かに鞘を取り払った。

 相変わらず寒気がするほど静かで綺麗なその刀身は、ただ佇んでいる祐一に合わせるかのように静かだった。

 そこで、試してみたくなるのが人情というものである。
 祐一は要らない紙を用意すると、静かにそれを刀で貫いた。

「傷……塞がってくれ」

 祈るように念じながら刃を紙から抜く。
 すると……。

「うわ……」

 最初から何事も無かったように、紙は元通りだった。
 狐につままれたような、夢を見ていたような……そんな、不思議な気分だった。

「斬ったものを思い通りに出来るのか……?」

 それは祐一の予想でしかないが……こんな危ないものを手当たり次第に試すわけにもいかなかった。
 そうすれば周りに迷惑がかかる事は必至だったし、そうでなくてもここでは練習に不向きだった。

「外に、出るか……」

 祐一はそう呟くと、十六夜を布で包み、夜の町へと身を投じた。



「うぅ、まだ少し寒いな」

 根っからの寒がりである祐一は、軽装過ぎたと後悔した。
 しかし、今から運動をしに行くというのに厚着はおかしい。
 自分の選択は正しかったと無理矢理結論付けて、歩を進める。

 祐一の向かった先は、噴水のある公園だった。
 校庭では広すぎると思い公園で練習しようと思ったのだが、他の公園の存在を祐一は知らなかった。
 学校へ行くよりも遠かったかもしれない。

「やれやれ……でもまあ、練習出来そうだからいいか」

 犬の散歩やら、ジョギングしている人やら、デートに来ているカップルやらが居ては包みを解くことなど出来ない。
 そんなことしたら、即刻お縄頂戴だ。

 祐一は包みを解くと、腰に差し刀を抜いた。
 意外と難しかったが、落ち着いてやれば何とか出来るだろう。

「さて、最初は……」
「あれ……祐一さん?」

 いざと気合を入れた途端、邪魔が入った。
 しかし祐一は、焦りよりも驚きで一杯だった。

「し、栞……?」

 祐一に声を掛けてきたのは、他でもない栞だった。 




* 41 *




 きゅっ、とストールを握り締める音が聞こえるような静かな夜だった。

「手に持ってるのは……なんですか?」

 いつかに聞いたような……おぼろげな細い声で、栞は祐一に訊ねた。
 その問いには答えられず、祐一はただ黙っていた。

「祐一さん……?」

 栞には、今日の昼に会ったはずだった。
 しかし……人はどうしてこの短い時の間に変われるのか、不思議でならなかった。

「ああ……家に代々伝わってる、霊剣だそうだ」
「どう見ても刀ですから、霊刀というのではないでしょうか」
「ああ、それもそうだな」
「祐一さん、『ああ』が多いです」
「ああ、癖なんだ」

 一種の懐かしみに似たこの感情は、祐一の心を支配していた。
 その病んだ声を出させたのは自分の持っているこの刀だというのは、すぐに解った。
 この戦いが、誰かの『命』を絶つものだと……そう明示していたのだ、この刀は。
 それでも、祐一は『力』を望んだ。
 周りで唯一、『武器』だったとしても。
 不器用でも……それにすがるしかなかった。

「……悪い」
「いえ、私はどうこう言える立場じゃないですから。……祐一さんは、それの練習ですか?」
「霊力があるっていう言い伝えはあるらしいんだが、生きている内で誰も見たことないらしくて……どんな効力があるかどうかもこれから調べるところだ」
「そうなんですか……」

 栞の声に合わせるように、祐一は肩をすくめた。

「だけど……一応、その『霊力』って奴を目の当たりにしたからな。栞の件もあるし……実際にどんな能力なのか、それを確かめにな」
「……じゃあ、一緒に練習しますか?」
「えっ?」
「おいで、みんな」

 意外な申し出に祐一が驚いている間に、栞は片方の表紙だけを持ち、速読か漫画での様にぱらぱらと滑らせてページを広げた。
 根雪、牡丹、氷室、氷南、百年とあゆが飛び出してきた。

「うぐぅ、なんでボクまで……」
「あゆさんも、戦ってくださいね」
「栞ちゃん、ボクの体治せないよ……」
「瞬間移動で逃げてください」
「む、無責任な……」

 涙目のあゆを放っておいて、栞は祐一の方を向いたままだった。

「さて、祐一さん……始めましょうか」
「って……もうやるのか? 俺はまだ、もらったばかりなんだが……」
「決戦まで日がありませんから……実践が一番です」
「ちょ、ちょっと――」

 栞が言い終わると同時に、根雪が飛び出してくる。
 祐一は咄嗟に構えると、力任せに斬りかかった。

ひょい――

 根雪はあっさり避けると、祐一の手を取る。
 祐一が反射的に手を引くのと同時に、その勢いと重心を利用して根雪は祐一を投げ飛ばした。

「くっ!」

 一応授業で習っていた受身を取ると、すぐに転がって近くを脱出する。
 起き上がると、既に根雪は近くまでやってきていた。

「くそっ!」

 下がっている切っ先を跳ね上げる。
 対して、根雪は怯まず祐一の背後に回りこんだ。
 すかさず祐一は前転して攻撃を避け、構え直した。

「祐一さん、避けるのは人並み以上ですがそれだけでは勝てませんよ!」
「うるさい外野!」

 思わず突っ込んでしまいながら、祐一は手を考える。

(せめて、火さえあれば……)

 そこまで考えて、思わず刀を見る。
 今の所切り紙を直すだけだったが……もしかしたら、斬ったものを思い通りに変化させるものかも知れない。

「それなら……こうだっ」

 祐一が刀で空を切るのを見て、栞は首を傾げた。
 しかし、それから炎が現れた時には、すっかり驚いてしまった。

「祐一さん……それは?」
「……企業秘密だ」

 一度これを言ってみたかったんだよな、と思いながら、祐一は言った。




* 42 *




「さて、反撃だっ」

 祐一は正眼から脇に構えを変え、勢いを付けて斬り上げた。
 根雪が思わず最低限しか避けなかったので、思い切り炎にあおられる。

「根雪っ!」

 根雪は大丈夫、というように手を振ると、前傾姿勢を取った。

「うわっ、これ俺も熱いな……」

 祐一が愚痴を言っている間に、根雪は一気に間を詰めた。
 その速さに、祐一の腕は思わず反応した。

 ……しかし、根雪の行動はフェイントだった。
 すかさず回り込むと、祐一の体が固まりきる前に、前の足を前に払った。つまり、出足払いである。
 祐一の重心は前に傾いているので、当然歩幅を無理矢理広げられて……。

「くぁっ!」

 祐一もどこにそんな運動神経を隠していたのか、左手を外し、体を捻りながら右手だけで刀を振った。

「!!」

 根雪は雪の盾を展開させるが、炎と刀の鋭さに盾が勝てなかった。
 小さな氷だけではなくちらほらと大きな氷の塊もある中を突き進んで、刀身が根雪に襲い掛かった。

「ねゆっ……!」

 すごい勢いで下がってきた根雪に、栞が駆け寄る。

「根雪……」

 根雪は、体が半分溶けてなくなっていた。
 人間で言うなら、肩口から下にすっぱりと削ぎ落とされている。

 すぐに栞はスケブをかざし、根雪を仕舞った。

「根雪……貴方は『根雪』なんだから、そう簡単には消えないの……っ」
「栞……」
「栞ちゃん……」

 体勢を崩した所為で何がどうなったやら理解していない祐一は、栞の様子を見てただ事じゃないと栞に近づいた。
 しかし、栞はスケブを抱えたまま一足飛びで後ろに下がり、叫んだ。

「牡丹っ!」

 栞に下がられて怯んだ祐一に、全てを貫く槍が近づいた。

「栞ちゃん!? どうしたの!?」
「うわっ!」

 咄嗟に刀で受け流す。
 普通の物ではおそらく折れてしまっていただろうが、それがこの刀の特異性を表していた。
 しかし、持ち主はその反動で弾き飛ばされて転がった。
 受身を取って起き上がった祐一が見たものは、涙を流しながらスケブを抱きしめ立ち尽くしている栞の姿だった。

「栞……」

 傷付くことを極度に恐れている栞は、それ故に必死だった。
 決して戦いには向かない、けれどそれが逆に合っている様でもある。
 栞は、そんな不安定は状態だった。
 しんとした公園で、異常なほどの殺気が満ちる。

(ちょっと待て、我を忘れてるな?)

 少しでも音を立てれば全てが動き出しそうな状況の中、祐一は心の中で突っ込みを入れた。
 現在後ろには牡丹、正面には栞と共に氷南、百年、あゆがいる。
 自分の身を案じてか、あゆは動かなかった。
 ここで下手に手を出して無差別に暴れさせてしまっては、弱い祐一やあゆには手がつけられないだろう。
 あゆが、困ったような様子で祐一の方を見る。

『お前は何もするなよ』

 目で念を押すと、祐一は刀を鞘に納めた。

「やめよう、熱くなってちゃ練習にならない」

 刀を地に放り、ゆっくりと栞に近づく祐一。
 しかしその堂々とした姿は、既に怯えている栞には恐ろしいものにしか感じられなかった。

「……も、百年っ!」

 ちらと一度だけ主人の様子を見たが、すぐに前へ飛び出す百年。
 そのまま、飛び上がりながら右手で攻撃を繰り出す。しかし、それをひょいと避けた祐一に、逆に胴を掴まれ地面に叩きつけられた。

「一応、運動神経は悪くないんだ」

 そう、静かに祐一は呟いた。




* 43 *




「あ、う……」

 後数メートルもない距離まで近づかれ、栞は完全に混乱していた。
 栞は『戦い』という事に関して、追い詰められ、錯乱状態に陥っていたのだ。
 練習とはいえ、根雪が斬られたのを目の当たりにして実戦を連想してしまったのだろう、味方であるはずの祐一の姿にすら恐怖を覚えてしまっていた。

「栞……」

 祐一の言葉が、栞の耳で反響する。くすぐったいような、疼くような、ちりちりした感じだ。
 普段ならばそれを情愛による緊張だと感じるのだろうが、今はそれを恐怖による緊張としか捉えられない。

「ひっ……氷南ぁっ!」

 氷南も当惑していたが、指示に従い冷気の矢を放つ。
 瞬速の冷凍光線を左腕で受け、それでも祐一は構わず歩き続け栞のところへ辿り着いた。
 栞は、恐怖で足がすくみ動くことが出来ない。目は大きく見開いたまま、何をする事も出来ずに固まっていた。

「あ……」
「栞」

 もう幾ばくもない場所――一歩進めば触れ合うほどの距離に対峙して、二人はほんの少し沈黙に身を置いた。

 この沈黙の一瞬は、栞にとっては限りなく長い時間だった。
 自分が何をしているのか、何をしなければならないのか。それすらも判らずに、ただ思考がぐるぐると頭の中で空回りしていた。

 この沈黙の一瞬は、祐一にとっては限りなく長い時間だった。
 いかに今までの出来事が彼女に負担を強いていたか、この様子を見れば一目瞭然だった。耐えることをやめた少女の心は、ガラスの様に弱かったのだ。

 人間いかに何かの為に強くなれるとしても、限界がある。
 ネズミがゾウに勝つ事はない様に。サルがクマに勝つ事はない様に。


 そして、沈黙を破って――祐一は、栞を静かに抱きしめた。


「お前は俺が守る」

 静かな、しかし強い言葉が、栞の耳を打つ。
 しんとした空気の中で、その言葉がゆっくりと響き、余韻を残しながら消えていった。

「だから……泣くな」

 そう言われて、初めて栞は自分が涙を流していることに気付いた。
 祐一は、その涙を見た瞬間に体が動いていたのだ。

「俺が強くなるから……お前はもう、何もしなくていい。お前が守りたいものは、俺にとっても守りたいものだ」

 暫くの沈黙の後、栞がぎゅっと握り返した。
 祐一はその小さい温もりを、
 栞はその大きな温もりを、
 久し振りに体で受け止めていた。

「……何日ぶり、でしょうか」
「そうだな……金曜日より前だから、少なくとも四日以上前だな」
「……祐一さん、もう日付は変わって今日は水曜日です」
「あれ? そうだったか?」
「はい」

 祐一に安堵の情が溢れる。
 栞の声が、随分柔らかくなったからだ。
 思わず、祐一は栞の華奢な体を抱きしめる。

 栞に安堵の情が溢れる。
 自分には、祐一という全てを任せられる人がいることを思い出したからだ。
 思わず、栞はその大きな体に身を寄せる。

「あっ……」
「ん、どうした?」
「氷室」

 栞は何かに今更気がついたという風に声を上げ、呼ばれた氷室は凍った祐一の腕へ向かった。
 途端に、祐一の腕に痺れる感覚が起こる。……いや、感覚が蘇ってくる。
 極低温のため、感覚が麻痺していたのだ。

「えっと……その、色々、ごめんなさい」
「ああ、気にするな」

 申し訳ない気持ちと、温かい心に触れて温かくなった気持ちが入り混じって、栞は今まで緊張していた自分が馬鹿らしくなってきた。

「じゃあ……迷惑ついでに、お願いがあるんですけど」
「ん?」
「このまま……暫く抱きしめていてもらえますか?」
「んー」

 何故か渋る祐一を不思議に思い、栞がは埋めていた胸から顔を上げた。

「その前に、問題を解決した褒美をもらわなきゃな」
「えっ、褒美って……えぅっ…」

 他に人間は居ない、噴水の音だけが聞こえる公園で。
 祐一と栞は、静かに口付けを交わした。



「うぐぅ、ボクがいること忘れてるよぉ」

 あゆの呟きは、噴水に流れて消えた。




           火曜日(朝)
             美汐:優希と再会

           火曜日(昼):決闘宣言
             祐一:十六夜(刀)を秋子さんから譲り受ける
             栞:根雪たちの訓練をしながら決闘場所の変更を思案する
             真琴:優希と再会
             北川:帰宅すると真琴に優希の存在を伝えられる

           火曜日(夜)
           *  祐一:練習のため公園にやってきて、栞と交戦
           *  栞:気晴らしに公園へ来て、祐一と対峙
             香里:夢の中で佐祐理と出会う

           水曜日(朝)
             栞:帰宅している
             香里:起床後、笛を手に入れる

           水曜日(昼)
             北川たち、集まって顔合わせ

           水曜日(夜)
             美汐:戦いに参加を決意




* 44 *




「うー、どうしよう……」

 時は卯の二つ(午前五時半)、所は美坂邸門前。
 そこで、当主の次女、栞は立ち往生していた。

 実はあの晩、そのまま家には戻らずにいたのだった。その理由は当人たちのみぞ知る。
 とにかく、彼女は可及的速やかに某飲料の様に家へ侵入し、自室へ辿り着かなければならない。
 父にはもちろん、姉にさえ見つかっては随分とまずい。

 忍び足で扉に近づき確認すると、夜飛び出してきたままに鍵がかかっていなかった。

(よく考えると、泥棒が入ってきてたかも)

 扉を開けたら、そこは真っ赤な――。
 と、変な事を考えてしまった頭をふるふると振り、栞は意を決して中へ忍び込んだ。

 そこには、真っ赤な光景が――広がってはおらず、閑散とした居間が目の前に佇んでいるだけだった。
 ただ全てを飲み込み圧迫する夜と違って、どこか全てを包むような広さがあった。
 それも、栞には緊張した雰囲気の味付けでしかないのだが。

(お父さんに見つかると、祐一さんにどれだけの迷惑が……お姉ちゃんに見つかると、、、やっぱり祐一さんが迷惑を……)

 大差なかったらしい。

(とにかく、そおっと、そおっと……)

 いつもは全く気にしないが、ドアが開くときの蝶番の擦れる音が特に気になる。そう思ってゆっくり開けようとするが、余計にその特徴ある音が空しく響くだけだった。
 栞は諦めて、開いたドアの間に身を素早く滑り込ませて侵入した。
 ノブを回した状態で固定したまま扉を閉め、ゆっくりとノブを元に戻した。こうしないと、がたんと大きな音を立ててしまうからだ。

(とうとう入っちゃった……)

 入らないと自室には辿り着けないのだが、栞はそう思ってしまった。
 ……しかし、このとき栞は、あゆの能力を完全に忘れていた。

 静かに靴を脱ぎ、土間から上がる。すり足をして、階段へ。

ぎぃっ

 びくっと栞の背筋が跳ねる。
 いつも聞きなれている音だが、木の軋む音というのは思いのほか響き、栞の鼓動も共に周りに響き渡りそうだった。
 階段を上がると、そこはもう栞の部屋だ。ちなみに二階の部屋割りは、階段に近いほうから栞・香里・物置と並んでいる。自分の体が弱かった頃は随分姉に精神的負担を強いていたのだなと栞は振り返るように思うが、実際誰が悪かった訳でもない。

ぐっ

 栞は固まった。
 微かな音だったが、自分が出していたような木の軋む音が濁った音だった。

(もしかして……お姉ちゃん?)

 本当にそうならば、栞は姉が部屋から出てくる前に自室へ辿り着かなければならない。
 その瞬間、栞の周りの雰囲気が変化した。……ように周りに人がいたら感じられただろう。
 一番上の段に手を掛け跳び上がり、二階の床に仰角ゼロに近い状態で滑りながら着地。そのまま音もなく扉へ辿り着き、やりすぎず開かない事はない絶妙の位置まで一気にノブを回し、音もなく扉を開けた。
 自室に滑り込んでから、栞は意識を取り戻した。

(わ、私は一体何を……)

 その理由を知るものはこの世にいない。

(と、とにかく早く怪しまれない状態にならないと……)

 慌てて、栞は机に就く。
 状況的に、ベッドで寝ていた方が良いとは思うのだが……そこまで栞の頭は回転していなかった。

こんこん

 用意は出来たか、いざ……と言わんばかりのタイミングで、栞の部屋の扉は叩かれた。
 高鳴る心臓を抑えながら、ポーカーフェイスの準備を整えて返事をするために口を開いた。

「はーい」

 栞の返事と同時に開く扉。
 その先には、少し驚いた顔をした栞の姉が立っていた。

「どうしたの、お姉ちゃん?」
「……いえ……起きてたのね」
「うん。何か目が冴えちゃって。お姉ちゃんは?」
「あたしは、いつも通りよ」

 穏やかに微笑む姉の顔には、隠してはいるが動揺の様子が微かに表れていた。
 少し話して、姉は去っていった。

「……っはぁっ……疲れた……」

 今まで息を止めていた間のような仕草を見せ、栞はため息をついた。
 この時、様子が変だと前日に思っていた香里は、栞の心的な問題が解決したことを知らずに、勘違いをして独り苦しむことになるのだった……。




* 45 *




 さて、漸く訪れた「決戦通告」の翌日。
 祐一と栞は、放課後を待って一緒に練習することを約束していた。

「祐一、掃除当番だよ」
「という訳だから、じゃ」
「どういうわけかまったく判らないよ……」

 逃げる側は当然の如く飄々としているが、追う側ものんびりしているので、掃除を巡った争いはとてもほのぼのとした雰囲気で行われていた。
 名雪には悪いが、くっ付かない方が名雪にとって幸せだったのだろうと、香里は一瞬思ってしまった。
 勿論それは損得勘定のみの判断なので、すぐに取り消したが。

「あの二人はいつになっても相変わらずだな」
「そういうあなたも、相変わらずねえ」

 香里に話しかけてきたのは、現在は妹の敵である北川だった。
 一週間もしない内に大変な状況となっているが、一年と暫く同じクラスであり、疎遠でもなかった相手に対して軽々と敵対心を持つ事は難しい。それなりに「馴れ合い」というのもあるし、争点以外では戦う必要などないのだから、当然である。

「まぁ、今一現実感がないからな」
「当事者にないんじゃ、あたしたちがあれこれ考える必要性はないわね」
「その内自然に終わるさ。然る結果でね」
「あら、早くも勝利宣言?」
「いや……どちらが勝つに関わらず、さ」
「歴史は勝者が語るものよ」
「いやいや、当事者であれば語る権利があるぞ?」
「確かに、三国人にどうこう言われたくはないわね」
「……例えが古い上に、意味が狭すぎるぞ?」
「差別用語ではないけれど?」
「……」

「あ、こら、祐一〜」

 香里と北川が暫く会話を楽しんでいる間に、決着したようだ。
 とりあえず、名雪が怒っている姿は他人のそれに見えない。どう見ても、怒るというよりしょ気ている。性格的に怒れない様だ。

「さて、オレも帰るかな」
「これから特訓?」
「ん、ああ……こっちにも勢力が増えつつあるからな」
「そういうことを、敵の身内に明かしちゃってもいいのかしら?」

 不敵に微笑む香里に、北川は笑い返した。

「うーん……なんか今回は、美坂は中立な気がしたからな」
「別に、あなたの味方じゃないわよ」
「美坂はシスコンだから判ってるが……なんとなく、勘だよ」
「誰がシスコンよ」

 無言で香里に指される指ひとつ。

「まあ、いいわ」
「いいのかよ」
「それじゃあ、また明日」
「おう」

 今までの会話はなんだったのか、と思うほど自然に、二人は別れてそれぞれの路に就いた。




* 46 * 




「ゆ、祐一さん……よくそんなに動けますね」
「……はぁっ……避けなかったら、そのまま死にそうだからな」

 祐一と栞の周りには、大小様々な穴が開いている。あっちの穴は、百年の、こっちの穴は根雪の投げ技、そしてそっちの穴は祐一の生み出した風の塊と、ファンタジー系の漫画ならば隕石の襲来でもあったのかと思わせる程の様相だ。最近は滅多に人が来なくなったものみの丘とはいえ、これでは随分と体裁が悪い。
 二人は一時休戦して、地形の修復に取り掛かった。
 こんなとき、祐一の能力は意外に役立つ。斬ったものを変化させると祐一は定義しているが、単に物体を移動させるのにも使えるのである。
 対して、栞は根雪・百年のほかに、稲火という新しい「お友達」を生み出し作業に当たっていた。稲火は見た目には子狐だが、その名の通り狐火を扱うことが出来る。
 稲火を見て、祐一は何故かある女の子のことを思い出していた。たった一週間か二週間しか見知らぬ少女のことを。

「……祐一さん、どうしたんですか?」

 栞の声で、祐一はふと我に返る。どうやら、随分と呆けていたようだ。

「……いや、何でもない」
「どこか怪我しましたか?」
「……昔のことを思い出しただけだよ」
「そうですか……」

 祐一と昔のことについての話題になったとき、栞は全く追求してこなかった。昔の自分と同じく、何か傷ついたものを持っていると思っているのであろう。刺激しないように、祐一が自分から話し出すのを待っているようだった。

「……さて、修復は終わったけど……続けるか?」

 祐一はその話をせずに、話を切り替えた。祐一にしてみれば、自分の恋人の前で他の女性のことを考えていたなど言えない。まあ、祐一はその娘のことをそういう対象として見たことなどなかったが。

「どうしましょうか……動いているのは祐一さんの方なので、そちらにあわせます」
「うーん、俺もそれなりに疲れてるからな……栞はもっと疲れてるだろ?」
「そんなことないです。あのころに比べて、体力もちゃんとついてきていますから」

 明るい言葉の中に、はっきりと抗議の意が含められていることに、祐一は気付いた。
 守られることが解ったからこそ、守られたくない……頼れる居場所が確固としてあることが解った以上、過剰に頼ること、すがることを拒否したのだった。

「………じゃあ、もう暫くやろうか」

 祐一は一足で距離をとると、十六夜を抜いて構えた。

「はい」

 栞も根雪を出し、スケブを広げた。



 ぼろぼろになって祐一が帰ってくると、珍しく秋子の出迎えがなかった。それを当然というのも気が引けたが、いつもあることが今日に限ってないというのは気になる。

「どうしたんだ?」

 不思議に思ってうろうろしてみる。リビング、キッチン……誰もいない。そして、戻って来て玄関の正面方向、右手の窓を見ると……。

「……舞?」

 そこには、右手に扇を持ち静かに舞っている秋子と、その横で舞を真剣に見ている名雪の姿があった。
 静かに舞を終え、こちらに向き直って秋子は微笑んだ。

「お帰りなさい、祐一さん」
「あ……ただいま、秋子さん」

 どぎまぎしながら答える祐一に、顔をほころばせた名雪が駆け寄ってきた。

「祐一、わたしのためのものが届いたんだよ」
「……え? 昨日の今日だぞ?」

 かなり昔に感じるが、決戦予告が発せられたのも祐一が十六夜を受け取ったのも栞と戦ったのも全て昨日の出来事である。

「速達で送ってもらったからですよ」

 平然と言う秋子だったが、どう考えても一昼夜で届きそうにない。

――気にしない方がいいのか?

「そうですね」
「!?」
「お母さん?」
「さて、名雪も早く覚えなければいけないわね」

 何かとても大変なことが発生した気がするのだが、その全てをあっさり流して秋子は名雪に呼びかけた。

「うん、祐一たちに追いつけなくなるから」

 名雪も、それに応じて無邪気な笑顔で答えた。

 開戦は土曜の夜。昼間を数えるならば、残り三日となった。
 いよいよ大きくなってきたこの騒ぎの終着がどうなるのか、もはや祐一には予測できなくなっていた。




* 47 *




 さて、栞と祐一の練習(戦闘?)が物見の丘で行われている頃、香里は屋上で件の笛を見つめていた。
 話の流れに沿って自然と受け取ってしまった笛だが、使い方など全く判らない。下手なことをやって大変な事になっては困るので、かばんに入れたまま触れられなかった。このあたり、妹と行動が似ている。
 一応、一通りの知識は図書室で得てきた。指導書も借りてある。しかし、当然ながら笛による魔法の使い方などは一切載っていなかった。

「さて……どうしようかしらね」

 見晴らしの良い場所から見える抜けるような青空の下で、野球部や陸上部、サッカー部などが練習に励んでいる。
 その掛け声などを乗せてやってくる風に吹かれながら、香里は少しぼんやりしていた。

 栞はどうしているだろうか、ふとそんなことを考えた。今朝会った栞の顔が、香里の脳裏に鮮明に焼きついていた。あの何かを押し込めた様な表情が妙に引っかかるのだ。

 口を笛に当て、ため息をつく様に吹き込んだ。
 十二音階で「ソ」の音が、周りに響く。
 その音は澄み渡り、辺りの空間を支配する。一音しか流れていないからか、とても寂しく感じる。風に身を任せ、そして風に乗って、風下へ風上へと流れていった。
 指遣いを変える。今度は二度上がって「ラ」の音だ。
 どこか優しくも感じられるその音色は、周りの木々を、校舎を、そして生徒たちを震わせた。

 いつの間にか、風から色が消えていた。

「……ふぅ」

 たった二音による「演奏」が終わった。
 辺りに、静寂が広がる。

「何も……起こらないわね」

 困った様に、香里は呟いた。
 結局、栞と同じように適当にいじってみることにしたのだ。
 栞は偶発的なあゆとの出会いがあったし、香里には時間がなかった。
 まぁ、こういう行動が様々な出来事を加速させたのだが……。

 そのとき、香里は怪しげな地鳴りを感じた。どうやら地震ではなさそうだ。
 地鳴りは下からだんだん階段の辺りを通って近づいてくる。
 人の声も聞こえたので、香里は大勢の人だと分析した。
 そして、香里は――

1.排水溝から逃げる
2.フェンスを越えて跳び下りる
3.「夕焼け、きれい?」と何食わぬ顔で聞いてみる。

「ってナニ、この選択肢!? しかも全部現実的じゃないし!」

 ――地の分にツッコみつつ、香里は踊り場の天井の上へ避難した。

 すばん、と大きな音を立てて扉が開く。そして、どやどやと大勢の生徒が屋上に出てきた。

「今笛を吹いてたのは誰だ!?」
「この辺りから聞こえてきたはず!」

――迷惑だったかしら?

 彼らの行動を見ながら、香里は次の練習候補地をいくつか挙げていった。

「是非あの演奏をもう一度!」
「何が何でも吹奏楽部に!」

 どうやら、予想と逆だったようだ。
 1/fのゆらぎが出ているかは知らないが、人を惹きつける音色を出せるらしい。

――あたしはナントカの笛吹きじゃないわよ?

 香里はツッコみたかったが隠れているのでそれも出来ず、いらいらが募るだけだった。
 つくづく今日はツッコミの役に回される日らしい。

――とにかく、ここじゃもう練習できないわね。

 香里はそう結論付けて、ころりと仰向けに転がる。
 真っ青な空が、視界一杯に拡がった。

 そして、いつの間にか……再び色づいた風の中で、香里は深い眠りに堕ちていった。




* 48 *




 祐一側、北川側、そして中立は三者三様過ごし、とうとう約束の前日となった。

「……祐一さん」
「ん……栞か」
「何考えてたんですか?」
「んー、特に何も」

 水瀬家二階、ベランダ。
 窓の横の壁に腰掛けながら夜空を見上げている祐一を見かけて、栞は声をかけた。……のだが、どうにも祐一のノリがおかしい。
 ちょこんと祐一の横に座り、頭を預ける。
 ……暫く。

「すまない、やっぱり考えてた」
「やっぱりですか」
「ちょっと、言いにくいことだったからな」

 祐一は頭をかきながら、そう言った。

「何考えてたんですか?」
「……今後のこと」
「今後?」

 祐一の言葉に、栞は首を傾げる。

「こっちにも負けられない理由がある。でも、あっちにも負けられない理由がある。じゃあ、どちらかが勝ってどちらかが負けた場合、俺はあいつとまた一緒に過ごすことが出来るんだろうか、ってな」
「……」

 それは栞も考えた。
 栞があゆのことを想って闘っているのと同時に、北川も妖孤のことを想って闘っているのだ。

「……どうにか、ならないもんかなあ」
「どうでしょう……そもそも、私たちにはあゆさんたちの言う『力』について何も知りませんから」
「確かに、科学的じゃないな」
「今は……とにかく、会ってみるしかないか」
「そうですね……」

 春とはいえ、肌寒い風が二人の間も通り抜ける。

「……大丈夫か?」
「祐一さんがいるから、寒くないですよ。……祐一さんが優しい言葉をかけるなんて、珍しいですね」
「そうか? こんなにいつも慈愛に満ち溢れているというのに」
「そんなの嘘ですー、いつもは意地悪ですよ」
「言ってくれるな」

 ほのぼのとした、心地よい空気。
 これが、明日以降もずっと感じられるように……と、祐一は思わざるを得なかった。




* 49 *




 開戦は、唐突だった。

「――っぅあ!」

 祐一が振り返ると、正面から何かが高速で飛んできていた。
 反射的に、手持ちの刀で防ぐ。

「……ちょっと待て、放課後になったばかりで生徒たちは沢山居るんだが」

 手元を見ると、刀を包んでいた竹刀袋は破れてしまっていた。
 当たったらどうするんだとか様々なことを考えたが、詮無いことなので思考を中断する。

「相沢さんでしたか」
「……天野、だったか?」
「人の名前を忘れてしまう、というのは人としてどうかと思うのですが」

 早くも夕焼け空の下の屋上で、祐一と美汐は対峙した。

「式神を追っていけば戦うべき相手に当たると聞いていましたが……相沢さんだったんですか」
「……真琴の一件以来――」
「貴方には、それについて語る資格はありません」

 祐一には、明らかに美汐の殺意が向けられていた。

「……ああ……俺には、何も出来なかったからな」

 祐一は、真琴に対して何もしていない。大したことがないだろうと、美汐と殆ど顔を合わせることもなかった。
 それも当然、祐一にとっては、栞のことが第一だったのだ。
 結局、真琴は祐一の前から消え去った。
 しかし、それを気にするほど、祐一の精神状態は健康ではなかった。

「何故北川について戦いに参加しているのかは判らないが……天野が俺を襲うことに関しては、何の疑問もない」
「……では、さっさと寝てください」
「断る」

 祐一は間合いを詰めると、鞘のまま振り払った。
 しかし、美汐も一気に間合いを詰め、祐一の手首を取る。

「っく!」

 そのまま転がされるが、受身を取って体勢を整える。
 目の前に、真っ白な霧が広がる。

「させるか!」

 左手で鞘を払うと、刀を回転させて「振った」。
 それと同時に巻き上がる、風。
 霧は文字通り霧散し、手を取った美汐と、跪いている祐一の姿が露になった。

「!」
「栞が待ってるんだ、負ける訳にはいかない」

 刀を逆手に持ち替えながら、祐一は言った。




* 50 *




 川澄舞という女性は、とかく風変わりであった。
 無口で挙動も少ないが、こちらに無関心という訳でもない。
 別段警戒心も持たず、しかし笑いかけてくることはなかった。

「……あの」
「……何?」

 居心地が悪くなって話しかけてみたものの、何を話していいやらさっぱり判らない。
 香里自身、ここに来たのは頼まれたからであって、そもそも何をしなければならないか、ということも判っていない。
 自分が目的を言わないため、相手も何も言わない。
 香里が「魔物」に襲われているのを助けられて以来十数分、今まで互いに一言も話していなかったのだ。

「……ここで、何をしているんですか? 『魔物』って、一体……?」
「……」
「何故、卒業した筈の川澄先輩が……何故、こんな夜更けの校舎で『魔物』と戦ってるんですか?」
「……私は」

 舞は口を開きかけたが、弾かれたように動き始めた。
 香里も慌てて後を追う。
 廊下の曲がり角に来たとき、走っていたにも関わらず、あまり音を立てずに止まった。

「先輩、一体……っ」
「……」

 香里は舞に口を塞がれた。
 それと同時に向けた目は、「黙ってろ」と言わんばかりだった。

(……この人……)

 舞は暫く石の様に固まっていたが、崩れ落ちるかの様に自然に……滑るように動き出した。

「……っ!」

 息吹と共に、舞の剣が空間を薙いだ。
 それと同時に聞こえる、鈍い音。

「……っっっ!」

 香里は、その辺りの空気が歪むのを感じた。
 舞は素早く香里の手を取ると、曲がり角の壁を楯にするように身を引いた。

 その直後、耳をつんざくような、窓ガラスが割れる音が響いた。

「……」

 香里は悲鳴も上げずに、ただ状況を整理していた。
 ……いや、整理しようとしていた。
 自分が今まで暮らしていた世界と余りにも違いすぎて……まるで夢の中にいるような非現実に、香里の心の手は虚空に切りながらもがいていた。

 香里は恐怖していた。
 自らが当事者になったことで、明確に「死」と対面していた。

 妹のこの一週間を見てきて、非現実には慣れたつもりでいた……しかし、「戦い」には慣れていなかった。
 相手が北川だからそこまで問題はなかっただろうが、一歩間違えば死ぬような戦いもあったと聞く。
 では、少なくとも今の自分の気持ちを、妹は感じていたのだろうか。

 死後は誰にも判らない。
 科学的には「そこで終わり」。先には何もない。物心がついてから「いつのまにか」存在する自分の意識と、その周りの世界を全て失う。
 恒久的に意識がなくなるということがどういうことか、それを想像することは出来ない。
 「意識がない」と自分で気付くのは、いつもその先に「気付く」という未来が必要不可欠だからだ。
 宗教でさえ、他人の哲学でしか――。

 香里の身体が一瞬、不安定になった。
 それが、足を払われて転んでいる最中だと気付いたのは、思いっきり尻を地面に打ち付けた後だった。

「ぼけっとしないで」
「……ぁ」

 気がついた香里が最初に見たものは、頭から血を流している舞の姿だった。
 自分をかばったのだろうか。いや、それよりも問題は、自分がどれだけの間放心していたかだ。

 香里は今、自分に何が出来るかを模索した。
 自分には戦う力はない。体育は出来ない訳ではないが万能ではないし、武道の心得もない。
 そうなると。

 香里はまだ手に持っていた笛を口にあてがった。


 通るような、一条の音だった。
 それは、さっきまで見えずとも怖いほど感じていた「魔物」の存在感を綺麗に消し去ってくれていた。

「……弾き飛ばした?」

 舞が、そう呟いた。




* 51 *




「はっ、はぁっ……」

 部活で賑わう廊下を、スケブを抱えた栞は走っていた。

――どうして、こんなことになったんだろう。

 未だ混乱気味の頭を強引に働かせて、栞は考える。
 そう、北川に場所の変更を告げるまでは普通だったのだ。

『そうか……それなら、今からやろうか』

「……そうだ」

 栞は疲れた様子で呟いた。

 決闘場所変更の旨を告げられた北川は、おもむろに手をぽむと叩くなり、式を作り襲わせてきたのだ。
 相手は小さな小さな虫。
 これならば他の生徒に気付かれることなく、戦闘において重要な初手を与えることが出来る。
 栞の方も、容赦なく撃退するわけにはいかない。
 こんな能力は、世間に知られない方が都合が良い。

 そういう経緯で、栞は今走っているのだった。

「あゆさんっ」
「はいはい……って、ここ学校じゃない!?」
「あゆさん、お願いがっ」

 驚くあゆに対して、栞は平然と続ける。

「大丈夫なの?」
「そうではないですが……っ」

 あゆの姿を周りから隠しながら、栞は話す。
 それを察したか、あゆも周りをきょろきょろと見回している。

「それで、お願いが……わっ」

 栞は言いかけて、反射的に身を屈めた。
 それが不意打ちであったとしても、相手は攻撃の手を緩めない。

「……準備をしてくださいっ」
「いつでも大丈夫だよっ」

 その言葉を聞いて、栞は廊下の角を曲がる。
 ――丁度、そこには誰もいなかった。

「稲火っ……あゆさん、今っ!」

 その瞬間、栞の身体が炎に包まれた。
 同時に、栞にたかっていた虫も紅の光に埋まる。
 しかして床を溶かすこともない完全に調節された炎は、刹那の後に、何もなかったかのように消え去った。

「……全部丸ごと焼き払ったのか……」

 北川は、床に落ちた消し炭を見つめながら呟いた。



「……一体、どうしたんだろう……」
「どうしたの?」

 ここは先ほどの場所に近い、空き教室。
 そこに、栞は身を潜めていた。

「……北川さんのこと」
「北川君が、どうしたの?」
「いきなり、戦闘になるなんて……」
「それはそうだけど……元々敵だったんだから、仕方ないと思うよ」
「……敵じゃないです」
「栞ちゃん……」
「あんなに、楽しく過ごしていたのに……」

 暫くの沈黙。

「……でも、やっぱり今の北川君は敵だよ」
「……」
「北川君はボクの命を狙ってる。だから、どんな理由があるにしろ、命を狙ってくる限りボクにとっては紛れもなく敵なんだ。だけど……栞ちゃんが嫌なら、もうボクを守らなくていいんだよ。「ボク」はいなくなっちゃうけど、それで誰かのためになるなら……」
「……いえ、私はちゃんとあゆさんを守ります」
「でも、そんな調子じゃ北川君と戦えないよ」

 栞は暫く沈黙した。
 いざ決めたといっても、どうしても迷う。人間はそんな生き物だ。

「……戦います」
「そりゃあよかった」

 がたんと近くの机に音を立てて、栞が身を翻す。
 入り口の辺りに、式を連れた北川が立っていた。

「で、どうするの?」

 肩からぴょこんと飛び出した頭は、とても明るい赤茶色だった。

「そりゃあ……栞ちゃんの守ってる『天使の力』を頂くさ」
「……させません。貴方たちが刻を急ぐのは知っていますが……せめて生徒が帰る夜まで待ってくれませんか?」
「もう、待ちきれないんだから! この数日、どんなに苦しい思いをしながら待ったか!」

 真琴が叫ぶ。
 誰かが聞いたら飛んできそうだが、幸い周囲に人はいなかったようだ。

「……オレが動かなくても、もう他の奴らは動いてるぞ」
「え?」
「とりあえず相沢には既に刺客を送ってるし、な」
「祐一さんは今、何も関係がないはずです! 祐一さんをどうするつもりですか!?」
「今日一日は動けなくなってもらうだけさ。そうすれば、オレと君との間に邪魔は入らない」
「……」
「ほら、『させません』って言ってみろ。……悪いが、今日のオレは冷酷だ」

 北川の右手が、紙と共に踊り始めた。




* 52 *




「……逆手に持ち替えて、何が変わるんですか? 普通刀というのは逆手に構えませんし、相沢さんが剣の達人だという話も聞いていないので、はったりのように見えますが」

 美汐は冷静に言った。
 ここは学校、人目がまだ残っているからこそ、派手な技は使うことができない……それが、北川と美汐の一致した見解だった。
 正直祐一がこんな物騒なものを持っているというのは予想外だったが、少なくとも、こちら二人は目立たない攻撃を仕掛けることが出来る。

「変わるさ。知恵ひとつで変わることなんか、この世に沢山ある」
「世の中の動きなんて、そんな変わりませんよ。自分がどんなに足掻いたって……どんなに走り回ったって……変わらないものは変わらないんです。それが、運命というものですから」

 それは、真琴のことだろうか。それとも、『あの子』のことだろうか。
 どちらにしろ、とてつもなく後ろ向きな発言だということには変わりない。

「……運命? そんなの人間が考え出したことでしかないさ。人が選択し行動した結果を、『運命』と呼んでるだけなんだよ。何も別に決まっちゃいない、決めてしまっているのは……何にも変わらないと決め付けてる人間の『心』だ」
「貴方に何が解るんですかっ!?」

 それは、祐一が初めて見る美汐の声を荒げる姿だった。それどころか、普段は話し言葉も少なだというのに。

「……何も苦しい思いをしなかった貴方に、そんなこと……っ!」
「別に俺のことをどう思おうと構わないが……その言葉だけは訂正させてもらう」

 一瞬、祐一が真剣な目つきになった。
 それは熱くなっている美汐を醒めさせるほどの圧力を持っていた。
 逆手のまま腕を振り上げながら、祐一が叫ぶ。

「人は皆、各々なりに苦しみを抱えて、乗り越えてきたんだ!」

 打ち付けられた鞘尻から、閃光と轟音が発された。
 それが鞘尻と地面にの間に発生した雷だと気付く間もなく、美汐はその全てを享受する。
 ぐらつく美汐の意識。
 光と音だけだったが、視覚と聴覚を麻痺させられたために、まともに行動することは不可能だった。

「……優希……」

 崩れ落ちる美汐を、祐一は優しく抱きとめた。

「俺だって……何も……」

 風に消えてしまうような小声でそう呟くと、祐一は美汐を陰に寝かせ、自分の上着をかけた。
 もしかしたら風邪を引いてしまうかもしれないが、刀を持ったまま気絶した女の子を連れていくなどという「お前はいったい何をしたんだ」と言われそうな行動をする暇は、今の祐一にはなかった。

「さて……北川に問い合わせてみるか……」

 祐一は校舎内に向かって走り出す。
 だが、ふと立ち止まって、手元を眺めた。

「……その前に、竹刀袋の代わりを探さなきゃな」

 一応、銃刀法は忘れてなかったらしい。











それでは今回の作品をー。