「…………ん」
スイッチでも入ったかのように、唐突に意識が目覚めた。
珍しい、と思う。いつもは瞼に滞留する眠気もなくするすると両目が開かれ、カーテンを透かして降り注ぐ朝光が視界を柔らかい白に灼く。
「……んん…」
確かに眠気は残っていなかったけれど、素肌をくすぐるシーツの感触と暖かい日差しにひんやりした朝の空気がたまらなく心地よくて、その想いをカタチにしてかき抱くかのように四肢をちぢこませる。
そして、手ごろな暖房を求めて目の前の背中に抱きついた。
「……んぅ…」
――あったかい。
至福の心地で身をよじる。
その背中の持ち主は、まだすやすやと寝息を立てていた。
「…む」
何だかくやしい。
女の武器とでも言うべき箇所を、惜しげもなく押し付けているというのに。
……まぁ、いささか慎ましやか過ぎるとか、武器は武器でも「こんぼう」とか「どうのつるぎ」ぐらいのものでしかないという自覚はあるのだけれど。
「むぅぅ…」
ぬくぬくとした気持ちから急転直下。眉根が寄せられて白いおでこにしわが走る。原因は全て自らにあるのだけれど、ふくれっ面は止められない。乙女心は複雑だ。
「むぅぅぅぅぅ…!」
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ――――――――!
「えう――――っ?!」
自分の唸り声より大きい突然の騒音に、栞は喉から肺胞が二、三個飛び出そうなくらい驚いた。
「な、な…?」
依然その震動音は鳴り続けている。まだ胸が早鐘を打っているものの多少落ち着いた栞は、その音の先でぶるぶると震え、ぴかぴかと光っている文明の利器を発見した。
ぶぶぶ、
何の前触れも無しに震動は止まった。
辺りは再び静寂を取り戻す。
「短い…。メールですかね」
首を傾げて栞は思案する。確かめれば早いだろうが、その携帯電話の持ち主はすぐ横の彼であって栞ではない。人のメールを読むのはマナー違反だ。
…いや、アドレス帳とか着信履歴はちよっと見てしまうこともない、こともない、こともないわけではないのだけれど。
「…ぅ―――むぅ」
すぐ横で身じろぎする気配。さすがに、今の騒ぎではどんな人でも――もとい、例外がひとり居るが――目を覚ますだろう。
「む、むむ……んぁ、れ? …しおり?」
ぽすぽすと彼女を探る。それがなんとなく嬉しくて、栞は自然と笑顔になった。
「朝ですよ、祐一さん」
「ん――…。…早起きだな、栞…。ふぁ」
祐一は眠気の抜けきらない瞳のまま、のろのろと身を起こす。
「おはようございます」
「ん、おはよう」
寝起きの気だるさとは別に、空気が緩む。同衾して、起きてすぐ朝の挨拶がドラマみたいで、栞の頬もにへーと緩んだ。
「しかし、何かあったのか? なんか凄い音で起きたような気が……」
「あ、そうです。
祐一さん、ケータイ電源切らずにマナーモードのままだったでしょう。それはもうびっくりしました」
「はは、すまんすまん。何来てた?」
「短かったからメールですよ、たぶん。はい、どうぞ」
栞から祐一に携帯が手渡される。昨日消したつもりだったんだけどな、ときまり悪そうに頭を掻きながら、パチンと筐体を開く。
ぽちぽちと数回のボタン操作ののち、祐一の目が丸くなった。
「な――…?!」
あまりの驚きぶりに、栞も身をすくめる。
が、次に飛び出した一言によって、身をすくめる程度ではすまないハメになった。
「け、けけけ結婚だって?! そんないきなりな――!!」
「えぅ――――――――――――――――っ?!!」
その朝、水瀬家の周囲かにばさばさと一斉に鳥たちが飛び立った。
その音の大きさたるや、凄まじいの一言では語りつくせぬほど凄まじく。
なんとあの水瀬名雪嬢の眠りを断ち切るほどであったという。
その事実を聞かされた私は、まさしく目が覚める思いを味わったものである。
「―――と、まぁ大方の予想通り、実際は大したコトないオチだったわけで」
「ええ、まったくもってその通りで…」
オレンジペコのカップを傾けて睥睨する香里の対面には、しゅるしゅるとノコノコにぶつかったマリオのように小さくなっていく祐一が居た。それはもう、そのうちタバコの箱さえ負かしそうな勢いである。
そんな祐一を見て、香里はもう何度目かになる溜息を吐いた。ここ数日の大騒動を反芻してみれば、溜息をいくつ吐いたって吐ききれない。
事の発端は前述した通りの出来事である。というか、いくら怒りに任せてとはいえ、語りができるぐらい詳細に、情事から一夜明けた朝の出来事などを、姉に赤裸々に話して聞かせるのは止してほしいと思う。何というか切実に。こっちはまだ未経験だっていうのに、どんな顔をして聞けばいいのかってんだ、ちきしょうめ。
「――ふぅ」
カップを空にして、また溜息が出た。
その後、お約束のように祐一が結婚すると勘違いした栞は激昂。フォローの間もなく美坂邸にて篭城を開始する。
ただ、思い込み先行型な彼女だが、ちょっとばかし特殊な境遇にあったもので、現実指向な考え方なら嫌というほど身に付いている。名雪から香里経由で事の次第を聞き、納得はしたものの、一度冷静になると始めの自分がバカみたいで祐一に合わせる顔がない。
そんな不毛な状態が一週間ごろ続いた後。
一週間弱の詰め込みアルバイトの給金と同額の安物のリングを携えて、祐一が美坂家にやってきた。
『栞…。今はまだ、本物は渡せないけど……俺が結婚したいって思うのはお前だけなんだ』
『ゆ、祐一さん…』
『…受け取って、くれるか?』
『も、もちろんです!』
『ああ、栞!』
『祐一さーん!』
(※一部に誇張・簡略あり)
それでまぁ、両親が不在なのをいいことに、なんとなく香里が水瀬家へお泊りさせていただくような空気になったわけである。まったく、とんだ茶番である(←毒吐き)。
「…まぁ、相沢くんも十分反省しているようだし、いいけど。ほんとはよくないけど」
「ぅ゛ぅ゛…」
穴が開きすぎて投網みたいになっているであろう自分の胃を哀れみながら、しかし祐一は、この程度の追求で済んだことを心底幸運に感じていた。
騒動が鎮圧した翌々日。
朝から夕方までずっと体をカタカタ震わせながら「ひどいよおねえちゃん、タップしようにもテがうごかないよ…」と呟き続けていた彼女の姿を、祐一は今でも克明に覚えているからだ。
「ふふ…。はい香里、お茶のおかわり、どうぞ」
ティーポッドと数器のカップを携えた名雪がにこにことやってきた。
「ありがと名雪。…何か可笑しいものでもある?」
「うん。ここまでめった打ちな祐一ってなかなか見れないんだよ」
机に突っ伏していた祐一の首がぎぎぎと回る。
「人の不幸を笑うとは悪趣味だぞ、名雪…」
「わたしだって騒動の被害者なんだから、おあいこだよ。はい祐一も、お茶」
「む…」
のそのそと身を起こして、ずずずとカップをすする。行儀が悪いが、お茶は美味しかった。
「ん、美味しい。ごめんね、朝早くから押しかけちゃって」
「えへへ、美味しいお茶受け、持ってきてくれたからね〜」
「……」
ちなみにそのお茶受けとは香里の脇に置いてある、箱からして普通のケーキとは毛色が違う、馬で言うならサラブレット、車で言うならフォーミュラ・カー、戦闘機で言うならF−22、エディタで言うならEmacsとでも言うべき佇まいの、ケーキにしておくのがもったいないくらいの気品を漂わせるケーキのことである。
阿呆みたいというか、値段を聞いた際の衝撃で阿呆になりそうなその価格は、祐一と栞の財布の中身を軒並み蹂躙した。問答無用の大虐殺だった。居候の身の祐一だが、出した割合が5.5:4.5だったのは涙ぐましい男の意地である。
「でも相沢くん、その親戚のひとの結婚式、行かなくていいの?」
「ずず…。ん、ま、正直そんな知ってる人でもないしなぁ。
というか、『来い!』と言わずに俺に尋ねるってことは、来るなってことなんだよ。
俺なら行かないって答えるに決まってるからな」
「そうなの?」
「そうなの。たぶん旅費代を出したくないとか、そーいう理由だろ」
実の親になかなかな酷評であるが、少しだけ声を弾ませた祐一を眺めて、香里は額面どおりの解釈を避けて、なかなか良好な関係らしいと推察した。
「ふうん」
そのへんを追求しても面白そうだが、わざわざ天邪鬼の素顔を暴くのも無粋かもしれないと思い直して、そんな気のない一言だけを漏らしておく。
「あたしはこのまま名雪のところにお邪魔してるけど。二人は今日どうするの?」
「ん、少し遠出をな」
「それでお弁当か…」
ちょうど呟いたとき、キッチンのほうからとことこと足音が近づいてきた。
「祐一さん、出来ました」
「お疲れ様。ほら」
エプロンを外している栞に、祐一は椅子を引いてやった。
「わざわざ台所お借りしてすみません、名雪さん」
「ううん、気にしなくていいよ。上手く出来た?」
「ええ、ばっちり。自信作です」
「だって、祐一」
「ずずず…ぷは。うむ、そりゃ楽しみだ」
キッチンのほうから漂ってくる香りを嗅ぎ付けて、何故か大仰に祐一は言った。
「じゃあ、いってきますね」
「気をつけて行ってらっしゃい。何か困ったことがあって、もし頼りになりそうだったら相沢くんを頼りなさい」
「おい」
「はい、わかりました」
「流すなよ」
「えへへ、冗談です。祐一さんはとても頼りになりますよ、お姉ちゃん」
「あー、そう。ま、いいからとにかく気をつけて行ってらっしゃい」
「はーい」
栞が先陣を切って水瀬家の玄関をくぐる。
祐一もそれに続こうとして―――ふと、後ろの香里を振り返った。
「なあ」
「何かしら?」
「もし、今俺がホントに栞と結婚する――って言いだしたら、どうする?」
「あら。祝福するわよ」
あまりにあっさりと断言されて、祐一は目を丸くした。
「あのな、俺は真面目に…」
「真面目も真面目。大真面目よ。
―――というか、ホントのところは、引き離すのがあまりにもメンドくさそうだからなんだけど」
苦笑気味に破顔する祐一。
「…で、ホントのところは?」
「言語道断よ。せめて一人前に食べれるようになってからにしなさい」
「自分で訊いといて何だけど、姉というより親だな」
「うちの両親が早かったからね。言ってもあんまり説得力ないもの」
冗談めかして、香里はそうしめくくった。
香里からの評価らしきものも頂けたので、祐一は再度きびすを返す。
栞が待っている。玄関をくぐる。
「……ただ、それならその時は、栞を幸せにしてあげるのよ」
最後になんてことのないことのように、ぽつりと香里は付け足した。