「結婚っ!?」
「しーっ! 香里、声が大きい」
「あ……」
ついつい立ち上がって大きな声を出してしまい、香里はあたりの様子を窺うと、少し顔を赤らめて腰を下ろした。
結婚するって、本当ですか?
「そっかぁ……相沢くんと名雪がね……」
ここは百花屋、いつものテーブル。この日香里は、相談したい事がある、と祐一に呼び出されたのだ。まさか祐一が名雪と近々結婚しようと思っているとは、思ってもみなかった香里ではあるが。
とはいえ、香里の親友である名雪と、そのいとこである祐一は恋人同士。付き合う時間が長ければ、そういう話が出るのも自然の流れだろう。
「で? 相沢くんは名雪になんて言ってプロポーズしたの?」
「いやぁ、それはな……」
まるで新しいオモチャを見つけたかのような香里の視線に、照れたように頭をかく祐一。
「……まだこれからなんだ……」
「なにそれ……」
途端にジト目になる香里。そのしらけた視線の中で祐一は、せわしなく指をもじもじとさせる。女の子がやるにはかわいらしい仕草も、祐一のような男がやるのではかなり不気味だ。
「まあ、冗談はともかくとして、正直なんて言ってプロポーズしたらいいのか……」
そう言って不意に見せる祐一の真剣な表情に、思わず香里の胸が高鳴る。
名雪との出合いが、祐一がまだこの街に住んでいたころからだとすると、それこそ二人が産まれたときからだといっても過言ではないだろう。二人でいることが当たり前すぎるくらいになっているだけに、今更改まってというとよくわからなくなってしまう気持ちもわからないでもない。
「やっぱり、定番はあれじゃないの?」
目の前にある紅茶を一口すすり、軽く喉を潤してから香里は口を開いた。
「『ぼくのぱんつを洗ってくれ』」
「洗ってくれてる」
「は?」
思わず香里の目が点となる。
「ああ見えて名雪も家事は上手だからな。ここ最近は洗濯とかよくやってるんだよ」
「そうなんだ……」
「暖かい日差しが降り注ぐ中、ハミングしながら洗濯物を干してる名雪がかわいくてさ、つい……」
その後小一時間ほど祐一のノロケ話しに付き合わされる香里であった。
「それじゃ、こういうのはどう? 『毎朝君の作った味噌汁が飲みたい』」
「作ってくれてる」
「は?」
再び、目が点になる香里。
「ここ最近は名雪も早起きしてくれるからな。毎朝とまではいかなくても、俺の朝飯とかも作ってくれるんだ」
「そうなんだ……」
「エプロン姿でキッチンに立ってさ、ハミングしながら料理する名雪がかわいくてさ、つい……」
再び小一時間ほど祐一のノロケ話しに付き合わされる香里であった。
「ところで、秋子さんにはもう相談とかしたのかしら? お嬢さんを僕にくださいって……」
「そういう話はまだしていないが、相談しても一秒で了承されるのがオチだ」
確かに、あの人ならやりかねないと香里も思う。
「そういえば、秋子さんはなんて言ってプロポーズされたのかしら?」
「気になったんで俺も聞いてみたんだが、あまり参考にはならなかったぞ」
「なんて言われたのよ?」
「『水瀬秋子になってくれ』って……」
「……随分ダイレクトね」
それを聞いた香里は肩を落とし、諦めにも似た息を吐いた。
「やっぱり名雪には遠まわしな言い方をするよりも、直接自分の気持ちを伝えたほうがいいんじゃない?」
あの親子に共通しているのは、ポケポケ、のほほん、おおらかの三拍子がそろっている事だ。下手に遠回しな言い方をすると、そのままの意味で捉えかねない。
「そうなると香里、俺と結婚してくれ、って言うのが一番か?」
「そうね。それならOKよ、って名雪も言ってくれるわ」
「それで、結婚式とかはどうするの? 洋式? それとも和式?」
「う〜ん……ウェディングドレスに身を包んだ名雪も捨てがたいが……。文金高島田で和装の名雪も捨てがたい……」
祐一は真剣に悩んでいる様子だ。しかし、閉じた瞳の向こうではそれぞれの衣装に身を包んだ名雪を想像しているらしく、その鼻の下はみっともないくらい伸びきっていた。
「いっその事お色直しで両方着てもらうとか……」
「あのね……」
妄想大爆発の只中にある祐一の姿にこめかみを押さえつつ、香里はバッグから結婚式場のパンフレットを取り出した。
「これがこの近所にある式場の相場よ」
祐一の提示したプランを軸に、香里は計算を始めた。
「結婚式に披露宴。花嫁さんのお色直しも含めた合計は……こんなところかしら?」
それを見た途端祐一の目が点になる。
「ウソだろ……こんなに高いのか……?」
いまだ貧乏学生である祐一にとっては、天文学的数字が羅列されている。名雪にイチゴサンデー奢ってあげるだけでも四苦八苦している経済状態では、高嶺の花もいいところだ。
これが本当の、絵に描いたもちである。
「今はこういうサービスが発達してるから、業者に委託するとなるとこんなもんよ」
指輪もいるしね、とウインクする香里。この場合の相場は給料の三ヵ月分くらいだが、祐一の小遣い三ヶ月分を投入しても宝石の類は無理だ。
もっとも、このあたりは自動車を買うのと違ってイミテーションもあるので心配はないし、祐一から贈られたものなら、例えそれが駄菓子屋で売っている300円くらいの指輪でも名雪は喜んでくれるだろう。
しかし、いくらなんでもそれでは祐一の立場と言うものがない。
「もうちょっと安くしたいんだったら、自宅婚って言うのもあるわよ?」
「なんだそれは?」
「昔は花嫁さんが自分の実家で仕度して、花婿さんの実家で式を挙げたらしいわ」
「そうなると名雪が実家で仕度して、俺の実家に行くわけだから……」
すばやく脳内でプランニングする祐一。
「……だめだ。俺が前いた街に行くには時間がかかりすぎるし、住んでたところも社宅だ。まさか、海外に花嫁衣裳の名雪を連れて行くわけにもいかないし……」
転勤族である祐一の父親は、特に決まった家を持たずに社宅を転々としていた経緯がある。それが高じて海外にまで行ってしまうのだから大したものだ。
そして、祐一は現在水瀬家に居候している身分だ。確かにプランとしては安上がりだし、大切な愛娘のために秋子も張り切ってくれると思うが、流石にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「とことん安くしたいなら、略式婚かしら?」
「略式婚?」
軽く微笑んで香里はバックから一枚の用紙を取り出した。
「婚姻届か」
「そう。結婚式とか披露宴は、どっちかと言うと儀礼的な意味合いが強いのよね」
なにも記入されてない用紙を、祐一は感慨深げに眺めた。
「そうだ。相沢くん、はんこ持ってる? 無ければ拇印でもいいけど……」
「ボインなら香里のほうが……」
「なんですって?」
「いや……なんでも……」
練習するつもりで書いちゃってよ、とボールペンを渡された祐一は、軽い気持ちで書き込んでいく。
「できた?」
「ああ」
記入に不備が無いかどうか確認してから、隣にある配偶者欄に自分の名前を書き込む香里。
「後はこの書類を役所に提出して受理されれば、婚姻は成立するわ」
「こんな紙切れ一枚だけなんて、簡単なもんだな……」
「そうね」
軽く微笑んで香里は、その書類を大事そうにバックにしまうのであった。
「あらやだ、いけない。もうこんな時間だわ」
腕時計を見て驚いたような声を上げる香里につられ、店内の時計を見た祐一はすでに四時を回っている事を確認した。
会計を済ませ、店の前で香里と別れた祐一であったが、このときの事をずっと後まで後悔する事となった。
針のむしろ、と言うのはこういう状況を言うのではないだろうか。朝食の席で、祐一は痛烈にそう思った。
「はい、あなた。あ〜んして」
祐一の隣にはさわやかな笑顔の香里がいて、対面には刺すような瞳で名雪が睨んでいる。
「……あのな、香里……」
「もう、照れる事無いじゃないの。あたし達は夫婦なのよ?」
「ねえ……祐一……?」
目の前でいちゃついている二人に、名雪は静かに声をかけた。
「これは一体、どういう事なのかな?」
「どうって言われても……」
決して責めるような口調ではないが、名雪の全身から放たれる氷の刃のようなプレッシャーに祐一はまったく身動きが取れない。もっともこれは香里がしなだれかかっているせいでもあるが。
「……ひどいよ、祐一……」
名雪の目じりに涙が光る。
「証拠だって残ってるのに……」
「名雪……」
目覚まし時計にこめたメッセージ、あれは祐一の偽り無い気持ちだ。
「ごめんね、名雪。だけどあたし、祐一にプロポーズされちゃったんだもの。しかたないわ……」
途端に厳しくなる名雪の視線に、祐一は大きく首を横に振る。
「証拠だってあるんだから」
そう言って香里は、ポケットからMP3を取り出して再生する。
『香里、俺と結婚してくれ』
『そうね、それならOKよ』
『香里、俺と結婚してくれ』
『そうね、それならOKよ』
『香里、俺と結婚してくれ』
『そうね、それならOKよ』
『香里、俺と結婚してくれ』
『そうね、それならOKよ』
『香里、俺と結婚してくれ』
『そうね、それならOKよ』
『香里、俺と結婚してくれ』
『そうね、それならOKよ』
うっとりとした表情でリピート再生する香里であるが、それを聞いた祐一の顔面は蒼白になり、頭を抱えてしまう。
「それに、名雪の事もちゃんと考えてるのよ?」
にこやかな香里とは対照的に、怪訝そうな表情の名雪。
「祐一は、名雪のそばにずっといるって言ってくれたんでしょ? だからあたしはこの家に住む事にしたのよ。約束どおり、祐一はどこにも行かないわよ」
確かにそれなら祐一は名雪のそばにいる事が出来るし、どこにも行く必要が無い。だが、根本的になにかが間違っているような気がする名雪であった。
「そうだ、言い忘れてたけど」
「なんだよ」
「別れるときも紙切れ一枚よ」