神様が見てるだけ
「そうですか、そんなことが……」
「いやもう、本当に参ってるんだよ」
名雪と結婚しよう、と思い立ったのは良いが、なぜか上手くいかない祐一。その上なぜかバツがすでに二つついていたりするのだ。
やはり、このあたりは相談する人物を間違えたのだろうかと真剣に思う。
その点美汐であるなら、相談相手としてうってつけなのではないかと祐一は思っていた。
しかし、その予想に反して美汐は、真剣な表情で祐一を見つめている。
「天野……?」
「すみません、ちょっといいですか? 相沢さん」
美汐は奥の座敷に祐一を案内すると、ちょっと待っていてくださいね、と言い置いて姿を消した。見回す部屋は純和風で、壁には床の間があり、よくわからない水墨画が飾られている。
その下にはつぼが置かれているのだが。
「だめだ、さっぱりわからん」
あの有名なつぼの人なら、これはよいものだ、とか言いそうなのだが、幸か不幸か祐一にはそうした感性が乏しいようだ。
「お待たせしました」
そんなことを考えながら畳のいぐさの匂いに包まれていると、ふすまががらりと開いて美汐が姿を現した。
「天野? その格好は一体……?」
巫女服姿の美汐に、思わず絶句してしまう祐一。それくらいインパクトのある光景が目の前にあった。
「気にしないでください。気分の問題ですから」
実家がキツネを祭る神社であるせいか、時々巫女のアルバイトをすることもある美汐。そのせいか、この格好をすると妙に気分が引き締まるような気になるのだ。
後でその話を聞いた祐一は、道理で妖狐とかの伝説に詳しいはずだと思ったものだ。
「おい……天野?」
不意に美汐が顔を近づけてきたため、妙にうろたえてしまう祐一。
「静かに、呼吸を合わせます……」
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
ギロン!
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
すーはー……。
ガション、ガション、ガション、
グイッ、ゴゴゴ〜。
『スレンダー、お前はここに残れ。ジーン、ついて来い』
『はいっ! デニム曹長』
(なんだ? 今の光景は……)
突然脳裏に浮かび上がる、全身が緑色のモビルスーツに首を傾ける祐一。
「やっぱり、思ったとおりですね……」
それに気がついた様子もなく、呆然とした表情で口を開く美汐。このときの二人の表情は、対照的といってもいいぐらいだった。
「思ったとおりって、なにがだ?」
「相沢さん、あなたには女難の相が出ています……」
「はい?」
耳を疑うその言葉に、思わず祐一は聞き返してしまうが,美汐は沈痛な面持ちで静かにうなずくのだった。
「心当たりはありませんか?」
改めてそう問われると、心当たりがないでもない。
確かにいつも女の子に囲まれているし、その意味で男の友達といえば北川くらいだ。
それにここ最近は香里や佐祐理との結婚騒ぎで気の休まる暇がなかったし、肝心の名雪との仲もギクシャクしたままだ。
もっとも、祐一もギャルゲーの主人公なのだから、そうしたトラブルは日常茶飯事ともいえるのであるが。
「これは、お祓いが必要かもしれませんね」
祐一の態度を見て、美汐は静かにそう呟くのだった。
「では、相沢さん。先ずは一杯」
美汐に差し出された杯に並々と注がれた液体を飲み込んだ祐一は、その正体に気がついて目を丸くした。
「これは……酒じゃないか?」
「お酒ではありませんよ」
口元に手を当て、ころころと笑う美汐。
「人を蕩かす魔法の水、般若湯です」
「酒だっ!」
「まあまあ、いいじゃありませんか。そんな事は」
そっと祐一に寄り添い、般若湯を勧める美汐。その態度になにか不自然なものを感じる祐一ではあったが、巫女服の胸元の合わせ目から僅かに覗く白い谷間と、美汐自身の優しく甘い香りも手伝ってか、ついつい勧められるままに酒盃を重ねてしまうのだった。
「それれ〜、らんれおれあ……。ひゃけのんれるんらっけ〜?」
すでにへべれけに酔っ払っているせいか、祐一は完全に呂律が回らなくなっている。普段はあまり飲むことはないのだが、美汐の勧めてくる酒があまりにも口当たりがいいせいか、自分でも気が付かないうちに飲みすぎてしまったようだ。
「もう、言ったじゃないですか相沢さん。お祓いに必要な儀式ですよって」
「あ〜、そうらったら」
その言葉に何度もうなずく祐一ではあるが、ある意味もうすでにどうでもよくなっていた。とにかく今は眠りたい、その一心であった。
「それでは相沢さん。この契約書にサインをお願いします」
「さいん〜?」
美汐が差し出す書類をどこかで見た記憶はあるのだが、祐一は酔っ払っているせいか、それがなんなのかまったく思い出せないでいた。
「ろっかでみたことあるら、こえ……。れも、いいか……」
なんとか書類に署名し、拇印を押したところで力尽きる祐一。それを見て美汐は、ニヤソ、と微笑むのだった。
「く……ここは……」
鈍く痛む頭を押さえつつ、祐一はまぶしい光の中でうっすらと目を開けた。
見上げる天井に見覚えはない。そればかりか、ここはベッドの上でもない。
柔らかな布団に、安らかな寝息。
「ちょっと待て、安らかな寝息?」
不審に思った祐一は少しだけ布団をまくり、寄り添うように横たわる温もりの正体を確認する。
「すー」
そこに寝ていたのは、天野美汐その人だった。しかも彼女は薄衣一つ身につけておらず、全裸で安らかな寝息を立てていたのだ。
「のわーっ!」
思わず奇声をあげて跳ね起きる祐一。これが名雪なら見慣れた光景でもあるのだが、相手が美汐ではそうもいかない。
「あ……おはようございます。相沢さん」
「わーっ! わーっ! わーっ!」
その声に気がついて身を起こす美汐であるが、小振りだが形のよいバストがポロリ。それを見てさらに大きく奇声を上げる祐一。
しばらく一人で大騒ぎをしていた祐一ではあったが、なぜか美汐は顔をあげようとせず、布団でしっかりと胸元を隠したままうつむいている。
このときの格好が全裸であることに気が付いたのは、祐一が叫び始めてから三十分ほど後のことだったという。
「もう……お婿にいけない……」
加持さん、あたし汚されちゃった。とでも言いたげに、タオルケットに包まったままさめざめと泣く祐一。
「相沢さん、泣いている場合じゃありません」
「泣きたくもなるわっ!」
「お祓いをするために、私たちの身も心も一つにするにはあれが一番手っ取り早かったんです」
美汐はこれも儀式の一環だというのだが、それならそれで早く言って欲しかった。
「……なんでこんな目にあうんだ……?」
「相沢さんの女難を祓うためですよ?」
少しは我慢してくださいと、諭す美汐の姿は、まるで母親のようだ。
「今がその女難の最中のような気がするのは気のせいか?」
「気のせいです」
美汐はきっぱりと言い切った。
「そんな事よりも、先ずはこれに着替えてください」
「こいつは……」
美汐に渡された衣装に着替えた祐一は、鏡の前で思わずうめいた。なぜならそれは、紋付の羽織袴だったからだ。
これは一体どういうことなのか、祐一は美汐に小一時間程みっちり問い詰めたい。問い詰めたいのだが、当の美汐は支度がありますので、と言い置いていずこかに去ってしまっている。
祐一の脳内では、このままでは不味い、いけない、どうしようもない、と激しく警鐘を鳴らしているのだが、もうどこにも逃げ場がなかった。
窓にはしっかり鉄格子がはまっているし、唯一の出入り口となるふすまはびくともしない。トイレに行きたいと言ってみるのも手かと思ったが、なぜかトイレもしっかり部屋にある。
昨日は気がつかなかったが、どうやら祐一は閉じ込められてしまっているらしい。
「そうだ、携帯……」
なんとか外部に連絡を取ろうと試みる祐一ではあるが、よくよく考えてみれば身包みはがされているのだから、当然携帯も服と一緒だ。
「お待たせしました、相沢さん」
さて、どうするかと祐一が思案し始めたところで、唐突にふすまが開いた。
「あ……天野……?」
思わず絶句する祐一。なぜならそこには、文金高島田に和装の美汐が頬を桜色に染め、俯きがちにたたずんでいたからだ。
「どうしたんだ? それ……」
「かつらですよ」
確かに地毛で結おうとしたら、名雪くらいの髪の長さが必要になるだろう。髪の短い美汐では、かつらにせざるを得ない。
それはともかくとして、高々と結い上げた髪を綿帽子で包み、きらびやかな衣装に身を包んだ美汐は別人の様で、思わず祐一は見惚れてしまった。
「それでは、行きましょうか。相沢さん」
すっと祐一に腕を絡め、歩き出す美汐。
「行くって、どこへ?」
「お祓いに、ですよ」
美汐に連れられていった部屋には祭壇がしつらえられており、その神前にある中央の席に二人は並んで座った。
すると、二人の巫女を連れた神主が現れた。どうやらこの人が祐一のお祓いをしてくれるらしい。
二人が起立すると神主が祓え言葉を奏上し、この場を祓い清める。そして、神主に合わせて二人は祭壇に向かって一礼した。
神前に供えたお神酒の蓋を取り、神主は祝詞を奏上する。それが終わると、お神酒を入れた盃を持って巫女が近づいてきた。
「なあ、天野……これって……」
「静かに、今は儀式の最中です」
聞いた話によると、一度始まった儀式を妨害する事は、儀礼進行妨害罪が適用されるらしい。実際入学式や卒業式で日の丸の掲揚や君が代の斉唱で問題が起きるのはこのためだ。それが嫌なら参列しなければいいだけの話しだし、文句があるなら終わってから言えばいいだけの事なのに、わざわざ式の途中で妨害し、破壊行為をするのはやはり犯罪だろうと思う。
そんなことを考えていると、二人の前には三段重ねになった盃が置かれた。
三三九度の儀式は結婚式には欠かせないものであるが、本来慶事の際には行われてきたもののようだ。
三段重ねの盃は上から天、地、人を表しており、最初の天の盃を新郎新婦新郎の順で飲み、次の地の杯を新婦新郎新婦の順で飲み、最後の人の盃を新郎新婦新郎の順で飲むのだ。三つの盃を三回に分けて飲むので、三三九度と言うのである。
酒を注ぐ際には銚子をそっと当てて二回注ぐ振りをして、三回目にそっと注ぐ。飲むときにも三口で飲み干すのだが、一回目と二回目は飲む振りをするだけで、三回目に飲み干す決まりらしい。
このあたりは神式と仏式でやり方が違うので、注意が必要だ。
昔から三や九の陽数は縁起がいいものとされており、結婚の契りを結ぶ儀式として広まってきたのだ。
なんとか三三九度、誓杯の儀を終えると、今度は誓詞奏上の儀となる。
これは単純に言えば、教会で行うところの『富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも……』と言う誓いの言葉を神前に奏上するものである。言い方は悪いが、唱える神の名前が違うだけで、儀式の内容そのものに変化はない。
そして、巫女さんたちが神前で神楽舞を奉納。玉串を拝礼して撤撰。際主一拝して儀式が終了した。
「ところで天野。この儀式に意味はあるのか?」
「はい……」
そっと頬を赤らめ、静かに口を開く美汐。
「相沢さんが『天野祐一』になることで、姓名判断の画数が……」
それ以上の言葉は、祐一の耳には届かなかった。
(ブルータス、お前もか……)
今まで見た事もないような美汐の笑顔が遠ざかり、そのまま祐一の意識は闇に飲まれていったからだ。