ふと、祐一は目を覚ました。


「……」


 しん、と静まり返った室内。
 朝日の入り込むそこは未だ肌に冷たく、布団を更に被ろうと寝返りを打つ。


「……っ」


 自分の腕の中に、栗毛色のさらさらした「何か」が見える。
 寝ぼけた眼はそれを精緻に判断することが出来ず、それでも祐一は無意識に顔をうずめた。

 気持ちの良い温もりと、気持ちの満たされるにおい。
 ……人のにおい。


(ああ、そうだ……)


 祐一は思い出した。
 今の動作で思い出したのではない。それならば今までも当たり前にやってきていたこと。

 ……そこに残る幾ばくかの酒の臭いが、祐一の昨日のことを思い起こさせたのだ。


(俺は……こいつと……)









より道の始め

                 雪凪ゆう







 話は一年ほど前にさかのぼる。

 大学四年に上がった祐一は、昨日のうちにやっと大掃除を終えた部屋に帰ってきたとたん布団に倒れこんだ。


「あー……明日からまた学校か」


 今日は授業開始前のガイダンスが行われていた。
 昨期の成果と、進路相談などの日程を言い渡されるだけの、簡単な「始業式」だ。

 ……勿論、別段疲れるようなことはしていない。
 たかが一時間程度、時間を拘束される程度のものだ。
 教職課程を取っている祐一にはもう少し長かったのだが、大したものではない。

 それでも、祐一は寝転ばずにはいられなかった。


「はぁ……」


 怠惰な時。
 今の祐一には、真面目に何かをしようという気力に欠けていた。

 ……大学に入った頃もこんな感じだったか? いや違う。
 水瀬家からも離れ、独り遠くの大学に入学した頃は、恋人をその地に残してきたこともあり気力に満ちていた。
 では今は? それは祐一本人にも解らない。

 なんとなく気力に欠け、なんとなく怠惰に時を過ごす。
 それは祐一の望むことではなかったし、何しろ今はやらなきゃいけないことがある。

 進路の決定。
 祐一はまだ、自分の生計を立てるものさえ決めてはいなかったのだ。

 学校を卒業せずにいたいと願う者は少なくないだろう。祐一は、その中の一人だった。
 しかし、自分の恋人を養うことも出来ないようでは、当然伴侶として迎えることも出来ない。
 猶予期間は、一年どころか間近に迫っていた。


ぴんぽん


 扉の呼び鈴が鳴る。
 自分の部屋への来客自体は、大学の悪友がしばしば遊びに来るので不思議ではない。
 しかし……。

(今日は用事があるって行ってなかったか?)

 そもそも、おとなしく呼び鈴を鳴らす奴だっただろうか。
 近所の迷惑も顧みず、ダンダンと扉を叩く奴だったはずだ。
 そんな行動にしぶかしみながらも、祐一は「来客」の為に扉を開けた。


「……」
「こんにちは」


 無言。


「……あの?」


 絶句。


「祐一、さん?」


 ……祐一は、急速に状況を整理し始めた。
 まず、普通に考えてこれはあり得なかった。
 何しろ新学期はもう始まっていて……いや、もう高校は関係なかった。
 だが、彼女と同じ大学に通っている筈なのに、何故……。


「……何でここに、栞が?」
「いちゃいけないですか?」

 飄々と言う栞に対して、祐一は言葉を詰まらせる以外になかった。


「いや、それどころじゃないだろ。ガイダンスは? お前の大学も、今日からのはずだろ?」
「はい、今日からですよ」
「じゃあ、何でこんなところにいるんだ?」
「いてはいけないんですか?」

「だから……ガイダンスはどうしたんだ?」
「ちゃんと受けてきました」
「それからじゃ、この時間にここには着けないだろ」
「いえ、着けますよ」

「……どういう意味だ?」


 意味が通らない。
 何故なら祐一と栞の大学は、鈍行で数時間もかかる距離なのだ。
 それを……。


「簡単です。私と祐一さんの大学が、同じだったということです」

「……は?」


 祐一は痛感した。

 あの時も、そして今も、彼女は自分の走っている「日常」というレールを専用の切り替え機を使って「亜日常」にしてしまうのだ。











 学力のほかに、祐一がこの大学を選んだ理由があった。
 それは、栞と距離を置くことだった。


 祐一と栞は、半ば極限状態の中で付き合い始めた。
 もちろん「一週間だけの」恋人であったし、その後付き合い直すという手順を踏んだものの、やはり気持ちの上での「勢い」はあったろう。

 極限状態に陥った男女は、本能的に子孫を遺そうとするものらしい(祐一本人は極限状態、というものではなかったが)。
 祐一本人は自分の気持ちに偽りがないと思っているが、何分今まで生きてきた内の何倍も一緒に生きていくのかもしれないのだ、確かめてみたい気持ちに駆られるのも間違ってはいないだろう。



 そして、その結果は。


「……どうしたんですか? 身を硬くしている様に見えますが」

 祐一は、がっちがちに固まっていた。
 「去るもの日々に疎し」と昔の人は云ったが、『何言ってんですかアンタ』と言いたいくらい祐一を意識していた。

(落ち着け俺。ってか夏休みにも会ったろ)

 冬休み・春休みは忙しくて帰っている暇がなかったのだが、夏休みにはしっかり会っている。
 しかし、会わない時間に比例するかの様に、祐一は目の前の少女(と言っては失礼か)に対して愛おしさを感じていた。

 ……触れたい。

 女性が男に対して愛情を抱いたときどうするのか、男の祐一には解るべくもなかったが、男の場合は単純に肉体的接触に帰結することを知識・経験として知っている。
 そして自分の身体は、その欲求に忠実に動かんとしていた。

(まあ待て俺。まだ会ってから十分だ。軽く部屋を片付けただけで茶も出してない。……え、充分? いや十分だ、じゅっぷん)

 強大な欲望をちっぽけな理性で抑えつつ、疑問を栞に訊いた。


「それで……要するに、進学先が嘘だったってことか?」

 先ほどさらりと言われたが、祐一は姉と同じ大学に行ったと聞いていたのだ。

「えっと……」
(ああもう、困った顔も可愛いなコンチクショウ)

 暴走しかけている祐一をよそに、栞はばつの悪そうな様子で話を切り出した。



「元はと言えば、祐一さんと同棲したかったからなんですけど……」



 そのとき、祐一の頭のどこかが、ぷちっといった。

「ゆ、祐一さん!?」


 ……このとき祐一が、『前例があるって楽だなあ』と思ったとか思わなかったとか。











 美坂栞は、ある決断をしていた。
 一悶着あったものの、最初は恋人の帰りを待つ気でいた栞だが、姉の一言でそれが揺らいだのだ。

『あなた、進路はどうするの?』

 元々生物化学は得意だったし、自分の呑んでいる薬に興味があって調べたりしていたので、割と迷うこともなく薬学部への進学を決めた。
 そんな栞に対して姉は喜んでくれたが、一瞬の迷いのようなものを見せていた。
 姉のことを追いかけていた栞だから、その一瞬に気付けたのかもしれない。


『……あたしと、同じところでいいの?』


 医学部二年の香里は、そう言った。

 ここ辺りで有名な大学と言えば、香里の通っている大学だ。
 当然、普通に考えれば栞も香里と同じ大学に進むだろう。
 栞としては念願の「一緒に登校」を一年間だけでなく、更に四年延長(医学部は六年制)されるのである。

 だから栞は、何故そんな質問をするのかと訊いた。
 過去の自分に対してわだかまりを抱いているのなら、流石に「しつこい」と怒るところだろう。
 しかし……。


『あなたのことだから、てっきり相沢君を追いかけるのかと思ったわ』


 それは盲点と言わんばかりに、栞は口をつぐんだ。

(私が、祐一さんのところに?)

 以前は諦めたこと。
 それは、高校の生活を諦められなかったから……諦めたこと。

 でも、それはもうすぐ円満に終わろうとしている。
 それなら……祐一を追いかけることが出来る?


『別に二年くらいどうってことないだろうし、暮らしもこっちの方が楽だけど……どうなのかな、と思って』


 姉は、本人以上に妹のことを理解していたようだった。

『ああでも、今度はあなたの卒業の関係で二年離れ離れになる可能性があるわね……。まあ、ついでだから同棲とか』
『ど、同棲っ?』


 実の妹に対してとんでもないことを言う姉である。
 そんな姉のからかいは別にしておくにしても、その可能性を考えたことのなかった栞は大急ぎで計算を始めた。

 ……そもそも、遠くの大学に行く必要性はあるのだろうか?
 現在、成績的には香里の大学でぎりぎりだ。届かないことはない。
 しかし、ミスをすると考えると、祐一の大学も浮上してくる。

『うーん……』




 栞としては、香里と同じ大学に行くことには、二つの意味がある。
 まず一つは前述の通り、『一緒に登校』を延長すること。
 そしてもう一つは、最近冷たくしすぎた姉に対する配慮である。

 あの春、栞は姉に『謝罪』された。
 然程栞は気にしていなかったが(気にしてない、といえば嘘になるだろうが)、姉の真剣な様子から、思わずそれを受けてしまった。
 それからというもの、どうにも『気遣い』が目に付いて気になり始めた。
 姉自身どうすれば良いか判らないままの行動、それが栞にとって重荷になっていったのだ。

 そして、栞は怒ったのだ。
 
 そんな憐れみは欲しくない、と。


 『気遣い』はなくなったものの、微妙な溝が生まれ、どうにも話しづらくなってしまった。
 それでは以前までと変わりない。




 ……だから、その解決策が今回の『一緒に登校』だったのだ。
 しかし、当の相手が『行って来い』というのだ、あちらはあちらで何か方策があるのかも知れない。
 そう思って、ここは相手の意見に従い、主な進路をそちらに取ることにした。


 ……香里からすれば、栞の幸せを第一に考えていただけなのだが。

 ちなみに、本当に「仲直り」したのは数年後、栞が育児について悩んでいる頃のことである。







 しかし、現実はそう甘くなかった。
 急に志望を変えたものだから、当然両親はその理由を訊く。

『えっと、実は……』

 そこからは大騒ぎ。
 言語道断の父親とたしなめる母親。
 終いには見かねた母親に縛り上げられてしまうが、父親は退かなかった。

 記憶の中に父の怒った顔が思い出せない栞は、すっかり動転して言葉を失ってしまった。
 良くも悪くも箱入り娘である。……よく抜け出してはいたが。


『……あのね、お父さん』
『な……なんだ!』

 香里の声に対して、少しうろたえる父。
 矢張り、娘の言葉には押されるものがあるらしい。

『何が不服なの?』
『そ、それは当然だろう!? どうせ同棲などになって自堕落になるに違いない』

(うーん、確かに相沢君も意思が強いわけじゃないわねえ……)

 思わず同意しかけたが、それは香里自身も確認していない以上、彼の尊厳を守るために出来ない。

『……あのね、相沢君は、』
『――どこの馬の骨とも判らない奴に、栞を渡せるかぁ!』

『ちょっと待った』


 何故か、そこまで大きくなかったはずの香里の声が、部屋中に響き渡るようだった。

『相沢君はあたしの親友だし、基本的人格は保証する。……流石に恋人に対する所作までは知らないけどね。……それでも、お父さんよりは彼のことを知っているつもりよ』

 正直話、彼がどんな職に就くのか判らない点が不安ではあるのだが、何より香里自身が彼に助けられた。
 だからこそ、彼の助けになりたいという心情もあった。

『……』

 父親は黙り込んだ。
 縛られ床に転がされている点は、どうにも格好がつかないものなのだが、真剣な雰囲気がそれを封殺している。


『――わかった。条件を守るという前提で許可しよう』

 父は、地べたで高らかに宣言した。











「……それで、条件って言うのは?」
「一つは、一年の間、こちらで全く会わないことです。おそらくお父さんの中では祐一さんも知っていることが前提だったんでしょうけど、『事前に伝えておかなければならない』と明文化されてはいませんでしたから、あえて教えませんでした」

 確かに知ってしまえば、祐一はどうにか会おうと画策していただろう。
 ……そもそも祐一にとっては、それをどう確認し判断するのか気になるところなのだが。

「……それで、他は?」

 一つ、ということはもう一つはあるということだ。

「もう一つは……流石に承伏できなかったので、私とお姉ちゃんで潰しました」

 明るい言葉の裏に、黒いものが走る。
 むしろ泣きながら承伏したのは父親の方だったろう。

「そうか……。すると、今日の用件っていうのは……」
「はい。祐一さん……私と同棲しませんか?」


 遠くで、車が唸りを上げて走っていた。









**









 春の教育実習で現実を突きつけられて、生きていくことに甘えがあったことを思い知らされ、自分なんかが他人を養っていけるか不安になった。

 夏には試験があり、その他にも騒動になった。
 詳しくは容量上省くが、どちらも避けては通れないものだった。




 そして、初冬。


「就職先が、決まったんだ」


 夕飯時、祐一は静かに告げた。
 栞は暫くぽかんとしていたが、すぐに顔を輝かせて喜んだ。

「本当ですかっ!? おめでとうございますっ」
「おう、ありがとな」

 栞の言葉に礼を述べるが、どうにも次の言葉が出てこない。
 にこやかな表情を浮かべていた栞が、不思議そうに祐一を見つめた。

「どうしたんですか? どことなく浮かない顔をしている様に見えますが」
「ん、いや、なんでもない」
「……そうですか……」

 栞は大人しく引き下がったが、事実祐一は何でもない訳ではなかった。

 腹はくくった。
 そのための職も手に入れた。
 ……しかし、肝心の言葉が出てこない。

 本当に一生を負えるのか。
 ……いや、そもそも断られたりしないだろうか。

 不安が不安を呼び、もはや何が不安だったか判らなくなるほどに、祐一の頭を焦りと混乱が襲う。

(俺はこんな踏ん切りが付かない奴だったか?)

 そう自分を叱咤してみても、声は息として吐き出されるばかりで、まともに言葉にはなってくれない。
 テレビに目を戻した栞も、その言葉をひそかに待っているかも知れない。
 ……いないかもしれない。

 告白したときの数倍の重圧がかかっている様にすら感じられる。
 あの頃は、何の問題もなく口にできたはずなのに。

(……あの頃は、『責任』がなかったからかな)

 高校生だったあの頃は『楽しいかそうでないか』が基準だった。
 責任も自分で負ったつもりになって、自分が正しいと思ったことを迷わずに行っていた。

 しかし、今は親の保護がない状態での決断である。
 生の責任が、自分の行動について回る。

 だが、今更退く訳にはいかない(ここ重要)。
 退きたくない。
 短い人生の中、重要な選択肢なんていくつかしかないのだ。

 このとき祐一は、世界構成の一因として『勢い』があるのをはっきり感じながらとうとう口を開いた。


「……栞、俺と、結婚してくれないか?」



 祐一の一世一代の大仕事は、『今年の離婚件数、過去最多に』のテロップが映し出される中、静かに開始された。











 大抵の男たちにとって、なるべくならば避けたいものの一つに、祐一は直面していた。
 それ即ち、相手方のご両親(特に父親)に会うことである。

 手塩にかけて育ててきた愛娘を取られる気持ちは解らなくもないが、それはそれとして退く訳にはいかない(こればっか)。
 ……避けられるに越したことはないのだが。

 祐一にとっての唯一の救いは、頼れる姉がいることだろうか。
 あっさりと『それはそれ』と言われそうな気もするが、前向きに考えていたい。

 美坂家への電車の中、栞を解して取り決めた日時はもうすぐそこまで来ているのに、祐一は全く腹をくくれずにいた。


(大丈夫、大丈夫……しっかりしろ、俺。栞に告白したときに、コレは覚悟したはずだろ?)

 人前に立つのはさして苦手ではなかったが、今後トラウマになりそうな緊張感だった。

(今回前に立つのはたった二人だ。34+αの前で授業もしてきたじゃないか。大丈夫、取って喰われはしない……)


「祐一さん、大丈夫ですか?」
「ダメ」
「……意外なところで普通なんですね」
「意外とはなんだっ」
「いえ、緊張とは無縁の人だと思っていたので」
「俺は病欠中の身でありながら私服で学校に行くほど大胆じゃないぞ」
「うー、祐一さんの情報が他になかったからですよ」
「まぁ、最初の出会いからして遭遇だしな」
「はい。一期一会とはよく云ったものです」
「……そんな意味だったか?」
「そんな意味だったと思いますけど」


 そのとき、目的地の放送が流れた。
 久しぶりの電車の旅も、じきに終わりを迎える。


「さて、そろそろですね」
「うっ」
「祐一さんなら大丈夫ですよ」
「……どこにそんな根拠があるんだ?」
「貴方は私の生き方を変えてくれましたから」

 迷いなく言われ、祐一はうろたえた。

「……それ、根拠になるか?」
「なりますよ。だって私は、それがあったからあなたの妻になろうと決めたんですから」

 そう言って、にこっと微笑む栞。
 その仕種やら、その言葉やら声やらが、祐一を黙らせた。

 この全幅の信頼に対して、祐一は応えなければならないのだ。

「……ああ、後悔させない様に頑張るよ」

 さらさらした髪に指を差し込む様にして撫でると、栞はくすぐったそうにしながら言った。


「後悔なんて、しないです」







 そして、美坂家前。
 何かと数度はお邪魔しているが、祐一の目には遥かに巨大で禍々しい気を発している様に見えた。

「……人の家を魔王の城にしないで下さい」
「むぅ、何故判った?」
「祐一さん、顔に出ています」
「そ、そうか……?」
「大丈夫です。多分喰われはしません」
「多分っ?」
「た、多分……。運がよければ……奇跡に賭ければ……」
「どんどん確率が下がってます、しおりさん」
「気のせいですよ。さ、行きましょう」
「今行くぞ、魔王ー」
「誰が魔王ですか」
「勇者の敵」
「今から会う人を敵扱いしないで下さい。さ、行きますよ」
(……自分を勇者呼ばわりするのは、問題ないのか?)

 半ば引きずるようにして、栞は自宅の扉を開けた。

「いらっしゃい」
「ど、どうも、初めまして……」

 玄関には、緑色じゃない中間管理職的な中年男性が立っていた。

「お父さん、この人がお父さんに会ってほしい人です」
「初めまして。相沢祐一と申します」
(……申します? ここは面接会場か? 一生こんな感じで話をするのか?)

 口が無難な発言をしている中、頭の中は突如大量の注文が来た厨房の様にてんてこ舞いだった。

「……とりあえず、上がってお茶でも飲みながら話そうか」

 様子を見る様な言葉が、祐一の身体にまとわりつく。
 娘が恋人を紹介するということに対する動揺ではなく、明らかに反感を持っていることを祐一は感じていた。
 確かに父親にとっては奪われたように感じたかもしれないが、流石にのっけから探る様にされるのは気分が良くない。
 余り似合うとは思えないが背広で着ているし、然程礼儀を欠く様なこともしていないはずだ(家の前でのやり取りを聞いているなら別かも知れないが)。

 栞の父親が後ろを向いたとき、突然左手を優しく包まれた。

「……!」

 驚いて振り向いた頃には既に離れていたが、栞が優しく微笑んでいた。
 おそらく、機嫌が悪くなりかけていたことを察したのだろう。
 祐一はそれに対して喜びの念を示したかったが、それをこらえて栞の頭に手をぽんと乗せ、栞の父の後についた。




「何もないところで勘弁してくれ」
「お気遣いありがとうございます」

 無難な会話をし、互いに席に着く。
 目の前の机には緑茶と茶菓子が置いてあったが、それに祐一が手を付けることはなかった。

(香里は……いないな。やっぱり期待するのは無理だったか)

 しかし、これまで栞と同棲できていたのは香里のお蔭だろう。これ以上の高望みは野暮というものだ。

「……さて、単刀直入に訊こう」

 そんなことを考えていた祐一をさておき、栞の父は話を切り出した。
 まるで威圧するかの様な栞の父の目は、どんな大きな買い物のときよりも鋭く、冷たかった。


「栞を……私の娘を幸せにする自信は?」


 直球だった。
 この姉妹の親だからもう少し遠まわしに言うものだと祐一は思っていたが、開けてみれば小細工なしだった。

 暫くの間を置いて、祐一は静かに答えた。

「……確実に幸せにできる、という自信はありません。内定が決まったといっても未だ若輩の身、これからどのような困難が待ち受けているか、想像もつきません」

 相手の親としては聞きたくない科白だが、祐一は敢えて口にしなかった。
 妥当な線を選ばないのが祐一らしいとも言える。

「それでは、何故幸せにできないと思いながら結婚しようとする?」
「幸せにしたいと、そのために努力をすることはできると思ったからです」
「努力だけでは幸せにはできない」
「しかし、できるかも知れません」

「かも、では納得できんのだよ」

 怒りを押し殺した声。
 それは、野に放てば人を襲いかねないほどの、凶暴さを孕んでいた。

「綺麗事では何とでもいえます。『必ず幸せにする』なんて、小学生でも理解できる科白です。しかし、現実はそう簡単ではありません。明日、自分が交通事故で死ぬかも知れません。そんな中でも、」
「そんな綺麗事はいい!」

 祐一の弁は、栞の父の怒号によって遮られた。

「そんなことは訊いていないんだよ、相沢祐一君。君が栞の人生をどう背負うか、それを訊いているんだ」


 祐一は考えた。
 斜に構えたことを指摘しているのだろうか。
 それとも理屈臭かったからだろうか。

 どちらにしても本心を否定されては、どう答えて良いか困る。
 自分とは違う前提で考えているのは判るのだが、どうすれば良いかが判らない。

(引いて駄目なら……)


 押し通す。


「全てを背負うことは、できません」
「そんな言葉を待ってるんじゃない!」

 再び怒号が響く。
 しかし、今度は祐一も怯まなかった。

「人生の最終決定者は栞さん自身です。『背負う』なんて一方的なものではなく、一緒に立って、支えあって生きていきたいと思っています」

「……それは、できなかったときのための言い訳か?」
「これが偽りのない言葉だ、とは言い切れます」

 相手の反感などものともせずに、祐一は自分の意見を言い通した。
 相手に伝わっていないところも、沢山ある。
 しかし、退かなかった。
 これは、曲げる訳にはいかない事柄だから。

 互いに睨む様な状態のまま、暫く。
 栞は祐一に助け舟を出そうとしていたが、展開の早さについていけなかった。
 既に口論となりかけているこの状況を穏便に解決する方法を知っているなら、ぜひとも教えてほしいものだと栞は思った。


「……もし、」

 栞の父が、口を開いた。

「できなかったら、どうするんだ?」

 一言区切り、間を持たせてから彼は先を続けた。


「……栞さんの意のままに」

 祐一も、言い切った。


「栞、どうするんだ?」
「え……?」


(……わ、私が主役になってるー!?)

 いきなり話を振られて、栞は慌てふためいた。
 どうしようかと流れを整理しようとすると、却って混乱の渦に巻き込まれてしまう。

「……わ、わたし、は」

 とりあえず話を切り出して、そこで硬直してしまう。


 一体、何を話せば良いのやら。
 祐一の肩を持つ?
 けれど、父親の発言が自分の身を案じてのものだということは考えずとも判る。
 栞としては一緒に居たいがために結婚を選ぶのだが、それが何故こんな口論に発展してしまうのか、それが栞にとって理解しがたいものであった。
 確かに生活は苦しいかも知れない。
 しかしそれは二人が望んで踏み入った地であって、その先に何が起ころうと、誰に文句を言える訳はない。

(……できなかったら、って何を?)

 幸せに?
 そもそもそこから理解できない。
 今は幸せでも、後に変わっていってしまうから?
 確かに、祐一と栞はたかが五年の付き合いだ。
 お互いが生きてきた時間に比べてさえ、その長さは短いと言わざるを得ない。
 つまり、自分の生きていた数倍の時間をこれから一緒にいなきゃいけないということだ。

 ……そんなこと、理解している。
 理解したつもりでいる。
 確かに、五年でさえ非常に長く感じたのだから、数十年は非常に永い時だろう。
 でも、そんなことを言い出したら、中年にでもならないと結婚できないことになる。

(やっぱり、私は、)


「……ふぅ、暑くなりすぎたな」

 栞の顔色が変わったのを察したのか、栞の父はため息混じりに呟いた。


 訪れる静寂。
 そういえば、栞の母がいないことに二人は気づいた。
 もしかしたら、こういう事態になることを想定して姿をくらましてしまったのかもしれない。
 一応、祐一は面識があり、打ち解けてもいたが……自由奔放な人だな、と祐一は思った。


「……祐一君、最後に一つ訊こう」
「はい」
「君は……栞のどこを見て自分の妻にしようと思ったんだ? こう言ってはあれだが、栞のできる家事などせいぜい料理くらいのものだぞ?」

 父の言葉に、栞も祐一の顔を見る。
 ふむ、と一呼吸か二呼吸考えた、祐一の答えは。

「……一つは、栞さんの機転が利き、過去にも様々な場面で助けられたからです」
「一つは?」

 栞の父の言葉に多少言いよどんだが、すぐに気を取り直し、祐一は口を開いた。

「もう一つは……栞さんが自分のことを信頼してくれているからです」
「……それが、どの様に関係あるんだね?」


 正直なところ、自分は弱い人間です。
 現実に、大学では怠惰な暮らしを送っていました。
 教育実習では、社会の『触り』だというのにくじけそうにもなりました。
 栞さんに愚痴を漏らすこともありました。
 けれど……栞さんは、それでも自分のことを信じて、励ましてくれました。
 そして、自分は腐ることなく実習を乗り切ることができました。
 本職ともなれば更に辛いことは容易に想像できますが……それでも、栞さんが傍にいてくれることで、少なくとも養っていけるくらいは頑張っていけると確信しました。

 これが……私が栞さんを自分の妻にしたいと思った理由です。


 長い言葉を、あまり間を持たせずに言い切った。
 ……間を持たせては、恥ずかしさで続きが言えなくなる位の言葉。
 祐一はこの後、栞に何度もこの科白をねだられては四苦八苦することになる。


「……そう、か」

 栞の父は暫く黙っていたが、重い口を開いた。

「……栞、お前は祐一君と一緒になることに迷いがないのか?」
「うん」

 今までの長い会話が嘘であるかのように、あっさりと栞は肯定した。


「今の私があるのも、祐一さんがいてくれたから。もし祐一さんがここまでやる凄腕の詐欺師だったとしても、後悔しないですよ」

 最後は敢えて丁寧語で、栞は言った。











***











「……ん……あ、……おはようございます」

 舌のはっきりと回らない、甘い声で栞は朝の挨拶をした。

「あぁ、おはよう」
「はい」

 布団の中で、じゃれつくようにすがる栞。
 その光景は二人が同棲してから当たり前の様に行われる光景だった。

「……あ、」

 何か思いついて布団を抜け出そうとする栞を、祐一は後ろから抱きつくように引き寄せた。

「どこへ行くんだ? 今日は休日だぞ」
「えっとですね……やはり生活の初日ですから、ちゃんと挨拶しておかないと」
「そんなの、昨日もやったろ?」
「うー、それとこれとは違います」
「同じだろ。内容的に違うところはあるのか?」
「うーん……じゃあ、変えましょうか?」
「ふむ、やってみろ」

 祐一が腕の中から栞を開放すると、寒さ避けにストールを一枚羽織って、祐一に向き合いながら正座した。

「祐一さん」
「おう」


「これから、頑張って私と子供たちを養ってくださいね」

 栞は、祐一が見惚れて何も言えなくなるほどさっぱりと、にこやかに言った。














あとがき


 時間かかってこんな駄作orz
 やっちゃいけないことまで手を染める始末。

 しかも管理遅れてすみませんでした(謝)







*2006年度から薬学部は六年制になりましたが、1999年度で栞が高校一年(留年)なので、四年制です。