「…うっ…えぐっ…」
(わたしのせいだ…わたしのせいで祐一は…)

 名雪は1人、手術室前の椅子に座って泣いていた。
 状況が語る通り、祐一が跳ねられた原因は名雪を庇ったからだった。逆に言えば、名雪が帽子を無理して取りに行かなければ、事故は起こらなかったのだ。

「名雪!」
「おかあさん」

 秋子が名雪の所まで辿り着いた。仕事を途中で抜け出して来たのだろう、完全に息が切れていて、肩で息をしている。
 ちらと秋子が手術室の扉の上を見るが、「手術中」という赤い光が灯っていた。

「祐一さんは大丈夫!?」

 いつもは滅多に血相を変えない秋子が、取り乱しかけていた。これほどに取り乱した秋子は、父親を生まれてすぐに亡くした名雪は初めて見る。

「おかあ…さん! わたしのせいで…祐一が!」

 目の前に立った秋子に、名雪は抱きついた。

「…名雪…」

 どうにか平静を取り戻す事が出来た秋子は、尚も泣く名雪をぎゅっと…しかし優しく抱きしめる。
 それからずっと、名雪は秋子に抱かれながら泣いていた。



 プルルルルル

「あ、お姉ちゃん。私出れないから代わりに出て」

 栞がキッチンから香里を呼ぶ。
 三月の半ばから、両親不在の時の料理が当番制になった。そして、今日は栞が料理を作る日なのだ。
 ちなみに、今日から明後日までの三日間、両親とも出張で帰って来ない。

「分かったわ」

 返事をして電話に向かうと、液晶には「コウシュウデンワ」という表示があった。
 誰からだろう、と思いながらも香里は受話器を取った。

「はい、美坂です」
『……香里?』

 受話器から名雪の声が聞こえた。しかし、聞き慣れない声のトーンで、いつもの名雪とは明らかに違っていた。

「…名雪? どうしたの?」

 少し考えた後、出来るだけいつもと調子を変えないように香里は会話をすることにした。

『………』

 しかし、返事をしようとしない。

「名雪?」
『香里…』
「ん?」
『…わたし、祐一に大怪我させちゃった』
「…え?」

 今の名雪の言葉の意味が理解できずに聞き返す。

『だから、今祐一が死にそうで手術を受けてるの!』

 さっきとは打って変わって、名雪は香里に怒鳴った。
 きっと、溢れそうになる気持ちを抑えきれないのだろう。

「…分かった、すぐそこに行くわ。場所はどこ?」
『場所は…』

 安心したらしく、名雪は穏やかに話し始めた。

「……」

 祐一が怪我をしたというよりも、香里には心配な事があった。
 それは、名雪の感情の起伏の激しさ。

(相沢君が怪我をする以上の、何か嫌な予感がする…)

 その不安を紛らわすかのように、香里は受話器から聞こえる名雪の声に集中した。



「名雪!?」

 香里がやっと手術室に辿り着いた。栞も一緒だ。
 名雪と秋子は、手術室の前に設けられている椅子に座っている。

「香里…」
「この病院だったのね」

 今名雪達がいる病院は、栞が16年間通い、入院していた病院だった。
 出来るならば二人とも二度と来たくない場所だったが、そんな事も言っていられない。
 栞も自分から「付いて行く」と言い出したのだ。祐一の事を心配している、というのが手に取るように分かる。

「名雪さん、何があ」
「栞、それを訊くのはいつでもできるわ」
「…うん…」

 質問しようとする栞を香里が止める。

「…ごめんなさいね、香里さん、栞ちゃん」

 ずっと下げていた頭を上げて、秋子は二人に謝った。

「……」
「祐一さん…死んだりしませんよね?」

 栞の質問に、わずかに秋子の表情が揺らいだのを、香里も栞も見逃さなかった。

「ええ…助かるわ」

 二人はただならぬ秋子の表情に不安を覚えた。二人とも秋子が多少の事では全く動じない事を知っていたからだ。
 この場に、陰鬱な空気が漂っていた。



 祐一の手術が終わった。
 しかし、「無事」という言葉は付かない。
 ただ、祐一が死ぬまでの時間が僅かに延びただけだったからだ。それも、明日までという異常に短い時間だけ。
 その結果を聞いた時、ほぼ全員が泣き崩れたのは言うまでもな
唯一泣き崩れ無かった秋子も、泣くのを必死に我慢しているようにしか見えなかった。
 今名雪達がいる所は、個室の病室の中だ。栞も名雪、秋子と共に祐一のそばにいる。
 名雪は、今日は全く眠くならなかった。いつもならとっくに寝ている時間なのに関わらず。
 あれから、祐一は眠ったままで、看護婦の話だと明日までに起きる予定らしい。
 その祐一には、今たくさんのケーブルが繋がれていて、口元にも酸素を送る機械が取りつけてある。
 香里は「近くにいても何もしてあげられることは無いから」と栞を連れて帰ろうとしたが、栞は帰りたくないと駄々をこね、秋子と名雪に迷惑をかけないと言う条件付きで許可して貰った。今は、祐一の顔を覗き込むようにして見ている。
 名雪が、意を決したように栞に話しかけた。

「栞ちゃん、話があるの」
「…はい」

 名雪の言葉に返事をして、少し考えてから提案をした。

「…なら、屋上で話をしましょう」

 できるならば、二人とも祐一とは離れたくなかった。しかし、内容を理解している以上、祐一の近くでは話したくない。

「…うん」

 秋子に屋上へと出る事を伝えて、祐一の事を頼んで二人は屋上に向かった。



「祐一さん、あの子達にあんなに想われて…幸せ者ですね」

 二人が病室を出てから秋子は、一人椅子に座って祐一に言葉をかけていた。
 返事が返って来ない事は分かっている。

「…残酷ですね。あなたを轢いた人は、ただよそ見をしていただけなんですって」

 祐一の首筋に手をやる。
 祐一は暖かさを保ってはいるが、頚動脈から感じる脈が明らかに遅かった。
 その現実を、そばに置いてある機械が電子音と共に明確に教えてくれる。

「祐一さん、知ってました? あなたを好きなのは、あの子達だけじゃ…無いんですよ?……」

 秋子の頬を、涙が流れ落ちる。ぽろぽろと涙腺が壊れてしまったかのように…

「祐一さん…私は、あなたが…好きです」



 深夜の病院は不気味だ。
 廊下は真っ暗だし、場所柄、幽霊が出そうだ。
 その中を、二人は何事も無いかのように歩く。
 怖いと思わない様にしているのか…あるいは、その感覚が麻痺しているのか。

「…ここです」

 目の前にそびえる扉を、栞がぎしぎしと軋ませながら開ける。
 目の前に広がっていたのは、空の闇と、地上に見える灯りだった。

「…きれい…」

 思わずつぶやく名雪。
 名雪の邪魔をするかのように、栞が名雪を促す。

「名雪さん、話をしていただけますか」
「…うん」

 二人は床の上に座りこんだ。
 コンクリートのひんやりとした感覚は、昼は丁度いいが、夜には少し冷たい。
 名雪は、一つ大きな深呼吸をしてから話を始めた。

「祐一があんな大怪我をしたのは、わたしのせいなんだよ」

 栞は何も言わない。名雪は話を続ける。

「祐一に買ってもらったばかりの帽子が風で飛んじゃって、わたしはそれを追ったの。車が近づいているのにも気付かないで…
 わたしが跳ねられそうになった時に、祐一がわたしを…突き飛ばして、祐一がわたしの…身代わりに、なったんだよ…
 最低…だよね、祐一がああ…なったのに、わたし…くっ、だけ…こうして、元気なん…だから…ひっく…うぐっ…」

 後半は泣きながら、名雪は話を続けた。
 服にたくさんの涙が落ち、跡が残る。
 その話の間、栞は一切口を挟まなかった。

「名雪さん…」

 二人は、しばらくその場を動かずにいた。




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