「ゆ…ういち…」
 名雪は、祐一のベッドに寝ていた。
 家に着いてから、ずっとその調子で、泣きながら祐一の布団にくるまっていた。
 祐一の匂いを、大きく吸いこむ。
 涙が、祐一の布団をだんだんと濡らしていく。
『光に当たると灰になるんだ』
 祐一が来てから少しした時、「灯りを付けようか?」と聞いた名雪への祐一への言葉。
「わたしも…灰になりたいよ…」
 涙が溢れ、シーツをさらに濡らす。
「名雪?」
 ふと、隣の部屋が開いた音がした。
 秋子が名雪の部屋を開けたのだろう。
 名雪はぱっと起きると、鍵を閉めようとした。
「あっ…」
 しかし、祐一の部屋には鍵がなかった。
 その間にも、秋子は名雪の部屋を出て、祐一の部屋に向かって来ていた。
「名雪」
 扉を開けて、秋子が入ってきた。
 その瞬間、陸上部の瞬発力を生かして秋子に体当たりを食らわせ、部屋の外に出た。
「あっ!」
 そして、秋子がひるんでいる隙に自分の部屋に入り、鍵を掛ける。
「名雪!」
 秋子の声がしたが、無視して眠る事にした。
 祐一の事を考えながら。


「栞!」
 香里が栞の部屋を開けた。
 びくっと体を震わせて振り向く栞。
「…あなたも、頭を使ったわね」
 息も荒く、栞をじっと見つめる。
 栞は香里を撒くようにいろいろな所に逃げながら家に戻ったのだ。
 香里の方が運動が得意なのに、一度も追いつけなかった。
 そして、今栞の手に握られているのは、黄色い柄のカッターだった。
「こ、来ないで!」
 自分の頚動脈に的確にカッターを当てて、香里を脅す。
 しかし、カッターを握る手は震え、声もこわばっていた。
「いい加減にしなさい」
 香里がぴしゃりと言い放つ。
「相沢君がいないからって、そんなことをして。相沢君がそんな事して喜ぶと思ってるの?」
「思ってないよ! 分かってる、逆に祐一さんに怒られるって。でも、嫌なの。祐一さんがいない世界なんて、私生きていけないの!」
 栞が叫んで、香里の言葉を返す。
「栞…」
「だから、私は…祐一さんの後を追いたいの」
「…じゃあ、あたしはどうなるの?」
 小さくつぶやくように、香里は言った。
「お姉ちゃんが?」
「あたし、あなたがいなくなったら、どうすればいいの?」
「名雪さんがいるでしょ?」
 平然と答える栞。
「あ、あなたじゃないと駄目に決まってるじゃない!?」
「何で?」
「な、何でって…姉妹でしょ? 当たり前じゃない!?」
「お姉ちゃんは私を拒絶したのに、自分が必要な時は、私を妹って扱うの?」
「そ、それは…」
 動揺して後ずさる香里。
 さらに栞は続ける。
「もう、お姉ちゃんなんて見たくない! 出てってよ!」
「……」
 香里は、何も答えられなかった。
「出ていってよ」
「……」
 返す言葉も無く、ただうつむくしか出来ない香里。
「…じゃあね」
「…え?」
「ばいばい、お姉ちゃん」
 その瞬間、香里の顔面に、液体が降りかかった。
「な!?」
 それは赤く、栞の首元から勢い良く流れ出ていた。
 それをまき散らしながら、ゆっくりと栞が崩れ落ちる。
 そのはずみで、刃が赤く染まったカッターが床に落ちて音を立てた。
「栞?」
 さらにそれは床に広がり、香里の瞳には、栞が赤い水たまりの中に倒れているように映った。
 それを見た香里は、ポケットからつい最近買ったばかりの携帯電話を取りだし、救急車の番号を押した。
「あ、妹が大怪我して大変なんです! 今すぐ来て下さい! 場所は…」
 通話を極力短く終わらせ、今も尚勢い良く血の流れている傷口を強く押さえ付けた。
「栞、今救急車を呼んだわ! あなたが望まなくても、それでも、私はあなたを殺したくないから!」
 栞の手を握り、香里は栞に話しかけた。


 名雪は、真っ暗な廊下を、ゆっくりと歩いていた。
 秋子に勘付かれないように、慎重に。
 手には、キッチンで手に入れた包丁が握られていた。
 そして、ゆっくりと風呂場に入り込んだ。
「もう、いやだよ…」
 湯の上に置かれた蓋を外し、その上に自分の手を乗せ、そして、包丁を自分の手首に当てる。
「ゆういちが、もういないんだもん。ゆういちがいないなら、もうここにいたくないよ」
 そして、手を引こうとした時、
「何をしてる…!」
 秋子の声が聞こえた。
 ゆっくりと名雪は振りかえる。
「おかあさん…」
「止めなさい!」
 急いで、名雪の腕を取り、包丁を奪おうとする秋子。
「やだ、やめて!」
 取り戻そうと、必死になる名雪。
 しかし、名雪の手から強引に包丁が抜かれた。
「…そんなに、死にたいの?」
 一つ、こくりと肯く名雪。
「そう…どうしても死にたいなら、もう私は止めないわ。どうせ、私が目を離した隙に死のうと思うのだろうし」
「なら!」
「でも、私の話を聞いて」
 怒る訳でもなく、ただ静かに名雪に話しかける秋子。
「私の夫、つまりあなたのお父さんが死んだ時、私は何度も死のうと思ったわ」
 名雪は、じっと秋子を見つめ、話を聞いていた。
「でもね、あなたの事を考えて、絶対に生きようと決めたの。だって、私が死ぬってことは、名雪が1人きりになるか、孤児院に入れられるって事だもの」
「……」
「私の事を放って死にたいなら、もう止めないわ。でも…私の事を少しでも考えてくれるなら、お願い…」
 秋子の瞳から涙が溢れ、頬を伝って落ちる。
 いつもは決して娘の前で流さなかった涙を、今はぽろぽろとこぼしていた。
 17年間生きてきて、名雪は初めて母の涙を見たことに今更ながら気付く。
 そして、自分がどれだけ彼女を苦しめる言葉を言ったのかを思い知った。
「お願いだから…死なないで…」
「…おかあさん」
 ぽつりと名雪がつぶやくように言った。
「私は、あなたを愛しているから…」
「…ごめんね、お母さん」
 体中から力が抜けてしまったかのように、名雪は両手を下に下ろした。
「…私、もう死ぬなんて言わないよ」
 名雪の瞳から、涙がぽろぽろと溢れ、下に落ちていく。
「…名雪…」
 秋子が名雪を抱きしめた。
「お母さん…」
 名雪も手を秋子の背中に回す。
 そして、二人で泣き続けた。
 まるで、二人の絆を確かめあうかのように。





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