ふと栞が体を起こすと、見知らぬ場所だった。
でも、それでも妙な安心感がある場所だ。
「栞」
「祐一、さん?」
そして、後ろにはもういないはずの祐一が立っていた。
「今日は、栞にお願いがあって来たんだ」
今日はも何も無いだろうが、祐一は栞に微笑んで言った。
「お願い…ですか?」
「ああ。頼むから、名雪を怒らないでくれ。車に轢かれたのは、俺が自分から飛び込んで行ったからなんだからな」
「…飛び込んだ、ですか…」
「俺の趣味なんだ」
「そうですか、分かりました」
栞も祐一に微笑みかける。
「次に、二度と死のうと思うな」
「……」
栞は返事ができなかった。たった今、自分が考えていたことだったから。
「自分でも分かってるようだが、栞が死んだら、俺は本気で怒るからな」
「……」
「返事はどうした?」
「…はい」
こくんと肯く。やっと栞にもこの状況が理解できた。
時間が無いのだ。祐一は、できるだけ短い時間で、伝えたい全ての事を伝えるつもりなのだ。
そして、全て伝え終えた時が、祐一との別れの時。
「そして、香里は、栞の事が世界で一番好きなんだ。だからこそ、栞をあの時は認められなかったんだ。分かってたよな?」
くしゃっ、と栞の頭に手を置いて、栞の頭を掻き回す。
「…はい」
いつもならすぐに直す髪を直さずに、素直に返事する。
「だから、これからも姉妹仲良く頑張ってくれ。…もし、二度目の奇跡が起きたら、もう一度逢って、一緒にアイスを食うぞ」
微笑みながら、さらに言葉を続ける祐一。
既に、祐一は最後の言葉を紡ごうとしていた。
それは、栞との永遠の別れを意味していた。
「…嫌! 行かないで下さい!」
抱きつこうと、栞は駆け寄って飛びつく。
「あっ!」
しかし、祐一の体をすり抜けて、栞は転んでしまった。
「もう、タイムオーバーだな。もう一度言うぞ。もし、二度目の奇跡が起きたら、もう一度逢おう」
「祐一さん! 行かないでぇ!」
涙を流しながら、それでも最後まで祐一を見ようと思って、顔を上げつづける栞。
「……」
何か祐一は口を開いてはいるが、既に聞き取れなくなっていた。
しかし、栞にはそれが何だかが、はっきりと分かった。
そして、祐一はふっと消滅した。
始めから、そこには誰もいなかったかのように。
「いやあぁぁぁぁ!」
栞は、その場にうずくまって泣き続けた。
「…あ…れ?」
栞が目を開けると、そこにはしばらく前まで見慣れていた天井があった。
長い間見つづけた、病院の天井。
「栞!」
そして、香里が栞の顔を覗きこんでいた。
「お…姉、ちゃん?」
「良かった! 目を覚ましたのね?」
満面の笑みで喜ぶ香里。
栞は、さっきの口論で言えなかったセリフを言う事にした。
祐一に貰った勇気を振り絞って、口を動かす。
「お姉、ちゃん」
出血のせいか、喉を切ったせいか思ったように声がでないが、それでも続ける事を決めた。
「何?」
「ごめんね、それと、ありがとう。それともう一つ…おはよう、お姉ちゃん」
「栞…」
香里が、優しく栞に抱きついた。
『また、今度な』
これが、祐一の最後の言葉だった。
頚動脈を切った栞の手術を担当した医師が言うには、「栞さんは、まだ生きる事を諦めきれてなかったのかもしれませんね。もちろん、かなり危険なの状態でしたが、頚動脈を切って数日で体調が良くなるというのは珍しいケースですから」
つまり、この世界への想いがあったからこそ、わずかに傷が浅かった、ということなのだろうか。
その返事が嬉しくて、香里は1人で泣き続けていた。