「面白い物を見つけたんだ」

 開口一番、彼はそう言った。

「面白い物……ですか?」
「そうだ」

 そして、目の前に置かれるそのブツ。

「これだ」
「……スケッチブック、ですよね?」

 多少古びてはいるが、それはスケッチブックだった。









彼と私とスケブと天使









「これはな、魔法のスケブなんだ」
「はい?」

 突拍子も無い言葉に、栞は絶句する。

「信じてないのか?」
「……信じてるとか、そういう問題ではないと思いますけど」

 信じる信じないの前に非現実的だ、と栞は思う。
 確かに栞は奇跡的に生き永らえる事が出来たが、それは確率の低いだけであって、一応科学的ではあったはずだ。

「どうしたんですか、これ?」
「そこにいた怪しげな妖精からもらった」
「もらわないで下さいっ! って妖精ですかっ!?」

 魔法の次は妖精と来た。もう栞は何が何だか解らなかった。

(変なこと言うのはいつもの発作だとしても流石に魔法とか妖精とかを平然と言ってのけるのは精神的に少しまずいというかお医者様に診てもらった方がでも昨日まで割と普通だったしこういうのって突然起きるというとアルツハイマーかなんかの所謂痴呆症ってやつでとなると祐一さんは十代で――)

 ちょっと栞も壊れた。
 日頃の祐一の評価が少し顕れていたが、痴呆症はまったく関係ないと思われる。いや違うだろう。
 どちらかというと薬物を疑え。

「まあ……落ち着け?」
「……誰のせいですか」

 あっけらかんと言われて、栞は脱力するしかなかった。
 そんな栞に、差し出される(魔法の)スケブ。

「とりあえず、勿体無いから使ってくれよ」
「もしかしたら何かが起こるかもしれないこれを……ですか?」
「大丈夫だろ、多分」
「うー」

 かくして、栞と(魔法の)スケブは出会ったのである。





 とにかく、そんな非科学的なことがあっても良いのだろうか。
 質量の保存やエネルギー保存の法則は無視されて良いものなのか。それとも、周りの何かを代用するのだろうか。

(周りの何か……って、一番近いの私だし)

 もし近いものから適当に使われるのだとしたら、真っ先に消し飛ぶのは術者本人という事になる。
 そうでないとしたら、周りの空気か、足元の地面。

(どっちも無いと死ぬんだけど……)

 思わず呟く。
 魔法の、と謳われているだけで、何が起こるか全く判らないのだ。
 何をもって動くかさえも判らない。

「……何だか、説明書きのないスイッチを持ってる気分」

 栞は途方にくれてしまった。
 スケブは栞の机の上に放置されたままだ。

「せめて、説明書くらいは欲しいなぁ……」

 そうすれば少しは使ってみようという気になるのに……そんな事を思いながら、スケブを手にとってみる栞。
 ふと、中身が気になった。

 そして、止せばいいのに……栞は開けてしまったのである。
 スケブを。

「普通のスケッチブックだね……でも」

 栞はそこに描かれている絵をまじまじと見た。
 そこには、可愛くデフォルメされたような、天使の絵。

「この絵、変」

 果たしてその言葉が鍵になったのかは判らないが……絵に、異変が起きた。
 絵が急に、盛り上がってきたのだ。

「!!」

 驚きのあまり、声も出さず栞は目を閉じながら目を背けた。
 弾みで、スケブも取り落とす。

「痛っ」

 声が聞こえた。
 それに反応して思わず栞が見た先に……その天使はいた。




* 1 *




「……はい?」

 栞は呆けたまま、ただ懐疑の言葉をつぶやくしかなかった。

「いたた……やっと出られたと思ったら、今度は落とされるなんて……」

 それは子供の声で嘆きの言葉を吐くと、頭をさすりながら立ち上がった。
 天使、としか言い様がなかった。
 白い衣と羽、そして淡く光る透き通った環。どこから見ても天使である。
 天使とは元来男性も女性も無い中性の子供らしいが、なるほど本当にどちらか判らないような顔立ちである。……単に童顔だから、というのもあるだろうが。

「……で、キミがボクを助けてくれたんだね?」

 自分のことをボク呼ばわりする天使を見て、何となく思い当たる人が栞にはいた。
 髪も、目も……どことなく、彼女に似ている。

「天使さん……あなたのお名前は、何ですか?」
「えっ?」

 存在でも素性でもなく、ただ一番に栞は名前を訊ねた。
 まるで天使を、誰かに重ねて見る様に。
 その答えに、何かを期待している様に。

「えっと……ボクに名前はないよ」
「えっ……?」
「今まで、誰にも会ったことがなかったから、必要なかったんだよ。……あ、その前にも会った人はいるんだけど……」
「そうなんですか?」
「うん。このスケブを使って欲しくて、たまたま最初に会った男の人にあげようと思ったんだけど……突然視界がスケブで埋め尽くされて、目の前が真っ暗になって、気付いたら閉じ込められてたんだよ……」

 その話を聞いて、栞は頭痛を覚えながらため息をついた。
 当然、それをした人と栞のところに持ってきた人は同じだろうから。

「祐一さんですね……」
「祐一君っていうの? ほんと、困っちゃったよー」

(……天使と妖精を言い換えたのはわざとですね、これを驚かせるための)

 所謂「まっくろくろすけ捕まえちゃった」状態である。
 一応今年で二十歳にもなろうという人が、幼稚園児並みの事をするとは。
 そう考えたら、栞の頭痛は更に酷くなった。

「……それで、あなたはこのスケブの使い方を知ってるんですね?」
「使い方?」
「その人の話によれば、これは魔法のスケブらしいので」

 天使は暫く考えて、はっと合点がいった様に手をぽむっと合わせた。
 その仕種は女性である栞も素直に可愛らしいと思えるほどに自然で、彼女(?)に似合っていた。

「うん、確かに使えるよ。……魔法といえば、魔法だね」
「どんな魔法なんですか?」

 曖昧な言い方をする天使に対して、栞が追って訊ねる。
 栞も、気になるのだ。
 あれだけ現実的でないと否定的だった栞だったが、実際この天使は紙の間に挟まっていたし、しかも今は宙に浮いている。
 否定しなければ、という気持ちもあったが、これだけ続けば感覚も麻痺するというものである。

「それはね……お友達を描けるんだよ」

 物事を一言を説明するというのは、彼女と同一人物とするならば、まさに彼女の得意なことだった。
 それが具体的か、抽象的かを問わず。

「お友達?」
「うん、とっても頼もしい、お友達だよ」

 天使は、にっこりと笑った。





* 2 *



「お友達……って、どういうことですか?」

 栞は訊ねた。
 抽象的過ぎて、意味が栞には意味が通らなかったのだ。

「ボクはこのスケブに挟まっていたのは、このスケブの力なんだよ」
「挟むことが……ですか?」
「えっと……正確に言うと、絵で書いたものを意志を持ったお友達として呼ぶことが出来て、またそのお友達を入れることが出来るんだ。ボクはどちらかというとその『お友達』に近いから、間違って吸い込まれちゃったんだよ」

 天使の言葉を頭の中で反芻する栞。
 暫くして、確認するように栞は口を開いた。

「要するに、絵を描くことで日本でいう式神や人形(ひとがた)みたいのを作れるってことですか?」
「……うぐぅ、式神とか、人形ってなに?」

(うぐぅ?)

 どこかで聞いた事のある単語だと栞は思ったが……それを思い出す事は出来なかった。

「……どうしたの?」
「えっ? あ、いえ、なんでもないです」
「ふーん……まあとりあえず、何か作ってみなよ。出来るなら、ずっとお友達になれそうな子を描いてね」

 うーん、と栞は悩む。
 あまり栞は少女漫画などを読む趣味はないが、たしかこういうマスコット系の小さな妖精が現れるお話は大抵何か厄介事に巻き込まれるのが常だと覚えている。
 出会ってしまったのは仕方ないとして、今ならまだ何も起きないのではないか、そういう考えが頭をよぎった。

「……栞ちゃん?」

 どくん、と胸が高鳴った。

「えっ……?」
「……どうしたの?」

 天使は、平然と栞の顔を覗いていた。
 そして、栞は思う。
 ……一体彼女は何者で、何のためにここにいるのだろうかと。

「いえ……じゃあ、とりあえず描いてみますね」

 気を取り直して、真っ白な紙に向かう。
 ……とはいっても、元々画力はそんなに高くない。栞の描ける絵など、程度が決まっていた。

「絵に自信が無くても、多少悪い方が味のある子が生まれるから気にしなくていいと思うよ」

 それは余計だ、と心の中でツッコミを入れておきながら、鉛筆で主線を、色鉛筆で風合いを付けていった。

「雪だるま、だね」
「……難しいのは描けないんです」

 丸が二つに、四角が一つ。典型的な雪だるまだったが、手は木の枝ではなく軍手だった。
 白を表現するために淡く塗られた青と、バケツの赤が綺麗に映えている。

「絵が描けたら、後は気持ちを込めて『出てきて』ってお願いするだけだよ」
「……それだけなんですか?」

 もうちょっと、呪文とか何かするのかと思っていた栞は、少し肩透かしをくらう。
 これで冗談だったら、今まで栞はとても恥ずかしい事をしていることになる。

「願う事は、とっても強い力なんだよ」

 天使はそう言った。
 何故だか、栞はその言葉を無条件に信じてみたくなった。
 ……天使の雰囲気が、純真だったからかもしれない。

「わかりました」

 栞は雪だるまに手で触れると、目を閉じて静かに願い始めた。

――雪だるまさん、出てきてくれますか?





* 3 *




 ふっ、と一瞬意識が遠くなるのを栞は感じた。
 単に眩暈がしたか、ぼけっとしていたのかも知れないが……不思議な感覚だった。

「うん、成功だね」

 その言葉に我に返った栞は、目の前で浮いているものに焦点を合わせた。
 そこには、大きさすらも自分が書いたとおりの雪だるまだった。多少、線のふらついている分は修正されているようだが。

「わ、ほんとに出ました……」

 やはり、天使を見ても全ては信じていなかったようだ。
 驚いている栞を差し置いて、雪だるまは体を傾けてお辞儀をすると、ふよふよとベッドまで浮いたあと、落下した。
 どうやら。長くは浮いていられないらしい。

「……この子って、溶けたりしないんですか?」
「普通の雪よりは溶けにくいけど、やっぱり暑ければ溶けるよ」
「へぇ……」

 そのまま、栞は暫く雪だるまの挙動を見つめていた。
 愛らしい仕種をしていた雪だるまの方も、じっと見つめられて少し恥ずかしい様だ。
 天使が、口を開いた。

「この子の名前、決めてあげようよ」

 その提案に、栞は頷いた。

「そうですね……それと、あなたの名前も決めないと」
「え?」
「天使さん、だけじゃ他に天使が来たときに区別が着かないじゃないですか」
「いや、多分来ないと思うけど……」
「とにかく、必要です」

 名前を付けられる事を渋る天使の意見を無視して強引に話を進める栞。

「うぐぅ、でも……」
「あなたの名前は、あゆさんです」

 もう、栞はこれが言いたくて仕方がなかった。
 その大目標の前には、最早この魔法のスケブすらもどうでも良かった。
 ただ、この天使が……あの冬の時代に数日だけ会ったことのある彼女かどうか、知りたかった。

「……なんで、その名前なの?」
「あなたが、あゆさんだからですよ」

 何の根拠もない。
 ただ、その疑惑を持ったときから、そうであることを期待している自分がいた。
 だから……もし他人だったとしても、そう決めたのだ。

「うーん、言ってる事はよく解らないけど……じゃあ、ボクの名前として使っていいのかな?」
「はい。今からあなたの名前は月宮あゆさんです」

 そう……。

「雪だるまさんの名前は根雪で……私の名前は、美坂栞です、あゆさん」

 ――まだ自己紹介もしていないのに自分の名前を呼んだこの天使が、彼女でないとしても。




* 4 *




 目の前のグラスが、からんと音を立てる。冷房を弱めにかけている店内は、なぜか栞と祐一の二人しかいなかった。
 昼のラッシュを避けて入ったのが良かったのだろうか。
 そんなことを頭の片隅で考えながら、栞は昨日の顛末を祐一に話して聞かせた。

「そうか、やっぱりあれは魔法のスケブだったか」

 祐一はしたり顔でそう言った。

「結構大変だったんですよ? 大体、天使と妖精を言い間違えるっておかしいじゃないですか」
「これで栞も魔法少女の仲間入りだな」
「私の話を無視しないでください。ってちょっと待ってください、何で魔法少女ですか!?」
「魔法、使えるんだろ?」
「一般にそういう人が使う様な魔法ではないんですけど……」

 抗議しかけて、今の祐一に何を言っても無駄だと悟った栞は口をつぐんだ。
 どうもスケブに出会ってからこっち、祐一は変にテンションが上がっている様だ。

「それじゃあ、そろそろ敵が出てくるかな……?」
「敵ってなんですか!?」

 どうやら祐一は、どんどん栞をそういう典型にはめていきたいらしい。

「じゃあ俺も、何か護身術くらいは身に付けておかなくちゃなっ」
「……」

 祐一さんはもう誰にも止められない……と、栞は本気で思った。

「で……その天使は元気か?」
「そうですね……元気ですよ。ご飯は食べませんけど、どこにそんなエネルギーを隠しているのかと思うほど元気です」
「そうか……」

 ふと、祐一が寂しそうな顔をした。
 なんとなく……祐一の考えていることが、栞には見当がついた。

「どうしたんですか?」
「ん、なんでもないぞ?」
「そんなに天使がお気に入りだったんですか?」
「うーん……まあ、そんなとこかな」
「まあ、そっくりですもんねー」

 祐一の動きが、一瞬止まった。

「……? 何を動揺しているんですか?」

 さっきの仕返しと言わんばかりに、平然とした様子で訊く栞。
 祐一は一頻り難しい顔をした後、はぁっとため息をついた。

「……何で俺が捕まえて、お前に見せたかも解ってるんだな?」
「そうですね……あの人に会わせたかった、というくらいなら解ってます。ただ……」
「ただ?」
「何故、スケブごと私に渡したかは解りませんけど」

 あの天使を見せるくらいなら、自分が所持していたって可能だ。どっかのノートみたいに、所持していなければ見えないという代物ではないのだから。
 けれど、祐一はスケブごと栞に手渡した。
 その行動が、栞には気になっていたのだ。

「栞にあげて魔法少女」
「それはもう解りました」
「……お前は一体どこまで俺の思考を読んでるんだ?」
「大体は鎌をかけているだけですよ」
「……ぐぁ」

 そうだ、こんな奴だったんだ……と祐一は今更ながら実感した。
 駆け引き事などは足元にも及ばないことを、祐一はすっかり失念していたのだ。

「……一つは、天使なんて俺が持ってるもんじゃないってこと」
「そうですね……周りに変な誤解を持たれたくないですからね」
「もう一つは……」

 そこで、祐一の口が固まる。
 言葉を選んでいるような……迷っているような。

「ひょっとして……自分のところに置いておきたくなかったからですか?」

 これは、栞の女としての勘だった。
 栞があんな小さな子にまで嫉妬する人間でないということは祐一も知っていることだし、成り行きでそうなったというならば、からかう口実が出来ただけで別に気にするところではないと栞も考えるだろう。
 ただ……不自然に押し付ける雰囲気だったのが気になったのだ。
 自然に「プレゼントだ」と言って普通のスケッチブックだとして渡せば何の疑問もなく受け取っていたのに、態々「魔法のスケブなんだ」と言って警戒心を煽るその必要性が栞には理解出来ないでいたのだ。

「――」

 まさに、祐一が口を開いて声を出そうとした時だった。栞の傍の一空間が光ったかと思うと、中から天使が現れたのだ。
 どうやら、瞬間移動の能力があるらしい。

「栞ちゃん、大変!」
「あゆさん、どうしたんですか?」
「移動しながら話すから、とにかく来て!」
「え、あ、えっと……祐一さんごめんなさいっ」

 栞は祐一に一礼すると、慌しく店を出て行った。
 その様子を目で追いかける、祐一。

「……やっぱり、か」

 そう呟くと、祐一はアイスコーヒーを一口、静かに含んだ。





* 5 *




「根雪、出てきてっ」

 その声と同時に、雪だるま――根雪が、開かれたスケブから飛び出す。スケブは、あちらの世界を覗き見る事が出来る窓であり、彼らが出入りする扉だった。
 しかも、その世界の住人を創造する事の出来る能力――それが、このスケブの力であり、栞が得た能力だった。

「根雪、追い払ってくれますか?」

 栞とあゆが対峙していたのは、一匹の野良犬だった。裏山に棲みついていたのが、どうやら下りてきたらしい。
 食料が不足しているわけでもないこの時期にどうして下りてくるのかは解らなかったが、それよりも今大事なのは、その野良犬に幼い子供たちが襲われている事だった。
 根雪は頷くと、勢い良く飛び出した。
 ……しかし、どうしていいか判らない風に、根雪はただ子供たちと野良犬の間に割って入るだけで何もしなかった。

「あゆさん、根雪って何か出来るんですか?」
「うーん、基本的には栞ちゃんが作って……考えて、教える形になるんだ。基礎的な能力は付いてるけど、栞ちゃんが何も教えてないなら殆ど何も……」
「……それなら、助けを求める前に言って下さい」

 栞が落胆しながら言う。
 ともあれ、早くしなければ根雪も野良犬の餌と化してしまう。栞は慌てて根雪を呼んだ。
 根雪が栞の方に来るのと同時に野良犬の注意がそちらに逸れ、その間に子供たちは逃げ出した。

「とりあえず、あなたには手があるので殴ってみて下さい。相手が攻撃してきたら、後ろに抜けちゃいけない時以外は横に避ける。まずはその作戦で行きましょう」

 細かく指示を与えられた後、栞の拍手と同時に根雪は野良犬の前に飛び出した。
 何故か攻撃する隙はあったにも関わらず構えの体勢のまま待っていた野良犬に疑問を覚えたが、栞は気にせずに仕掛けた。

「根雪、行けっ」

 一回着地して力を溜めていた根雪が突進する。あの後暫く出していたら、多少は飛行航続距離が伸びたようだ。
 それに真っ向から対峙するかのように、野良犬の方も突進する。多分、思い切りぶちあたれば、魔法で出来ているといっても雪だるまの根雪は粉々に砕けてしまうだろう。

「根雪っ!」

 栞のその言葉に反応するように、空中で不自然に根雪が体を右に滑らせる。
 目標を失った野良犬の体が、無防備に晒された。
 その隙を、根雪は見過ごさなかった。

「っ……やったっ」

 野良犬の腹に、深々と根雪の右ストレートが綺麗に決まった。
 そのまま野良犬は着地に失敗しどしゃっと崩れ落ちた。

「根雪、偉いっ」
「そんな現実的な技じゃなくても……飛び道具を持たせてあげれば、危険なことをしなくて済んだ気もするんだけど……」
「えっ?」

 ぼそっと呟いたあゆの言葉に、栞が固まる。

「勿論最初から強いのが使える訳じゃなくて、弱いのから練習する必要があるけど……一応、栞ちゃんの想像の範囲内なら何でも出来るんだよ」
「あゆさん……言ってないことが多すぎです」

 それから、「現実的」で栞は思い出した。
 基本的に、栞は元々魔法を信じていなくて、保存則がどうのとか考えていた部類だと。
 それが、いつのまにか……。

「……○雪ちゃんも、こんな気持ちだったんだろうな……」
「えっ?」
「……いえ、なんでもないです」
「うーん、どうしたの?」
「ただ……私って順応力高かったんだなーって」

 心底不思議そうに、栞は呟いた。

「何か隠してるよ……。……って、あれ?」

 あゆのいつもと違う質の言葉に気付いて、栞はあゆの目線を追った。
 それは、さっき倒した野良犬。

「どうしたんですか?」
「……透けてる」
「えっ?」

 栞は目を凝らした。
 ……確かに、体と空気の境が、薄くなっている。

「ど、どういうことですか?」
「さ……さあ?」

 そして……野良犬は、白い折り紙へと変わった。




* 6 *




「雪だるまか……栞ちゃんらしい」

 その声は、よく聞いたことのある声だった。
 何故その声の主がそんなことを言うのか解らずに、栞は思考停止状態に陥っていた。

「そういえば相沢が言ってたな。大きい雪だるまが作ってみたいんだっけ?」
「……北川さん」

 三叉路の影から、見慣れた姿が現れる。
 見間違える筈はない。
 ……週に、何度かは一緒に食べている間柄だから。

「やっぱり、適当に作った山犬じゃあ駄目か。まぁ、様子を見るためだけに作ったからなあ」

 北川が野良犬だった折り紙を手に取り軽く振る。
 すると、折られていた紙はあっという間にまっさらな紙に戻った。折り目一つない。

「あの犬を作ったのは、北川さんなんですか?」
「栞ちゃんも、飲み込み早いなぁ。……オレも、栞ちゃんと同じようなことが出来るんだよ」
「私と、同じ……?」

 北川はさっきの紙をひらひらさせて栞の注意を引くと、その紙をまた折り始めた。
 それは数秒もかからず鶴へと姿を変えていた。

「早い……」
「オレは元々手先が器用でね。それで、栞ちゃんと同じように魔法の折り紙をもらって……後は、栞ちゃんも知ってることだろ?」

 ……つまり、北川にもあゆみたいな存在がいるということだ。

「わかりました。しかし……何故、その犬を子供たちに襲わせたんですか?」
「ん……栞ちゃんの能力を見たかったからさ。何の罪もない子供を襲うほど俺は酔狂な人間じゃないさ」
「でも……何で、私のことを?」

 このスケブについては、栞の他は祐一しか知らない。
 しかし、祐一といえどもこんな話を一日で広められるだろうか。

「オレに憑いてる狐に教えられてね」
「狐?」
「自称妖狐、でも現在は妖力が足りないらしくてチビ助だけどな」

 北川がおかしそうに微笑む。

「……で、天使を倒せと言われた」
「えっ……?」
「何でも、天使の力があれば、簡単に元に戻れるかららしいんだが」
「……それで、私を倒してしまえば後は簡単だと……?」
「うーん、流石美坂の妹だな。ずばりご名答だ。そのスケブさえ燃やしてしまえば、天使の力を得るのは簡単らしいからな」

 その言葉に、栞は反発した。
 奇跡的にまた出会えた人を、絶対に失くしたくなかった。

「っ……そんなことさせません! 何で北川さんはそんなに酷いことするんですかっ!?」
「まぁ、乗りかかった船、というのもあるが……こちらにも事情があるからな」

 急に、北川の目も真剣なものになる。
 対峙する、二人。
 一気に雰囲気が張り詰めた。

 が。

「ふぅ、今日は顔見せだけだと決めたからな。最後に小物を出して、さっさと引き上げるとしますか」

 そう言うと、さっきの折鶴を栞の方に弾いた。
 それは一瞬で鳥に変わり、そのまま一気に突っ込んできた。

「あっ――」
「栞ちゃん!」

 あまりの速さについていけない栞は、呆然と立ち尽くしていた。
 北川の話を聞いて少し離れていたあゆは、間に合わない。
 やられる、栞はそう思った。

 その突進を止めたのは、根雪だった。

「根雪……」

 くちばしで胴体がえぐれて、空に光りながら散る。
 そのまま根雪は、鳥の首を掴んで、地面に叩き付けた。鳥の吐き出すような鳴き声が聞こえた。
 すぐさま鳥は体勢を立て直し、空に舞った。
 暫く空中で旋回して、機会を待つ様だ。

 栞は作戦を伝えようとしたが、そんな時間はなかった。

「栞ちゃん、来るよ!」

 あゆの声と同時に、頭上から鳥が落下するように突っ込んできた。

(せめて、根雪だけでも守る盾があれば……!)

 後の祭りだと思いながらも、栞は強く思った。
 ……そのとき、栞はあゆの言葉を思い出す。

『栞ちゃんの想像の範囲内なら何でも出来るんだよ』


 ……栞は、叫んだ。

「根雪、雪の盾!」





* 7 *



 きらきらした光の粒子が、栞を庇った根雪の手から円盤状に一尋程の径で広がっていた。
 まるで花火の様なそれは、どこか幻想的な雰囲気を感じさせる。
 その光景を、栞は今戦っている最中だという事も忘れて見入っていた。

「雪……というよりも、氷の粒……」

 それは、俗にダイアモンドダストと呼ばれる現象そのものだった。
 危険であることに気付いていたものの、鳥は突進の体勢に入っていたために避けることが出来ない。
 そのまま、盾に突っ込んだ。

「うわっ……何でもありかよ」

 北川が、思わず呟いた。
 それも仕方が無い、自分の作った式神が、その盾に触れただけで凍り付いてしまったのだから。
 『雪の盾』は、低温の冷気の盾だった。
 氷の粒が現れたのは、空気中の湿気が凍ったからである。極地方では朝方に起こることがあり、それをダイアモンドダストという。……とはいっても、これほどの寒さではないのだが。

 完全に凍ったのを確認してから、根雪は氷の盾を消した。

「……こんなことが……」

 指示した栞自身、こうなる事は予想していなかった。
 どちらかというと理系の栞には、科学的でないにも程があるこの状況に唖然としていた。
 もう何が何だか、頭の中がぐるぐる回ってる感じで、この状況を説明するなら夢の中が一番だなとどこか冷静に解決策を求めていたりしていた。

「やれやれ……もうちょっとこっちも頭を使って呼ぶ必要があるみたいだな。勉強になったよ」

 一人で納得した北川は、テグスを引く様に手で空を切った。すると、見えない糸が付いている様に折鶴は北川の手元まで飛んでいった。
 あれで自由に回収出来る様だ。

「それじゃ栞ちゃん、また今度」
「あっ……北川さん、待ってください!」

 栞の声を無視し、北川は道を曲がり、姿を消した。

「……はぁ」

 落胆の言葉と同時に、座り込んでしまう栞。
 無茶苦茶な騒動が続いて、ここに来て気が抜けたのだろう。

「大丈夫、栞ちゃん?」
「……現実離れしすぎて、逆に頭が冷静になってます」

 栞の目はどこか遠くを見ていて、あゆは心配になってきた。
 そのとき、根雪の姿が栞の目に入った。

「……あっ! 根雪、大丈夫!?」

 根雪は栞を庇って、体に怪我を負っていたはずだった。
 見ると、胸の辺りがざっくりとえぐられていた。雪なので血などは出ていないが、それでも痛々しかった。

「あゆさん、どうすれば治せるんですか?」

 栞は慌てた調子であゆに訊ねる。
 改めて、栞は何も知らない自分に腹が立った。

「えっと、消滅さえしなければスケブに戻せば少しずつ回復するよ。あと、戻しているときに栞ちゃんが書き足してあげるとか」
「書き足したりして、別の子になったりしないんですか?」
「一度呼び出してしまえば、その子はその子になるんだよ」

 話が長くなりそうだったので、とりあえず栞は根雪をスケブに戻した。
 あゆの言う通り、怪我もそのままに根雪は絵に戻った。

「……あゆさんには、もっと色々教えてもらわなくてはいけません。祐一さんに会ってから、家でお勉強です」
「うわぁ、積極的だね」
「私にも、事情がありますから」

 栞は意志を込めて、そう言った。

 そう……一期一会、だから。




* 8 *




「じゃあ、ボクが知ってるそれの使い方を教えるよ」
「もっと早く教えて欲しかったです」

 今更、といった雰囲気で栞が言うと、ささやかながらあゆも反抗した。

「だって、栞ちゃんあんまり信用してなかったみたいだから」
「根雪の件で、どうあっても否定出来なくなりましたから」
「……科学的じゃなくても?」
「現象を発見したのにそれを解析しない方が科学的じゃありません」

 なるほどといった様に手を叩くと、あゆは可愛らしい咳払いをした。

「じゃあ詳しい説明をするよ。まず、お友達を入れられるのは、一面に一匹まで。さっき書き換えると変わっちゃうんじゃないかって栞ちゃんが言ってたけど、そうならないのはその面がその子の部屋になるからなんだ」
「……根雪たちに道具を使わせることは出来るんですか?」
「その部屋に書いてあげれば、使わせる事も出来るよ」

 あゆの説明を聞いて、栞はひらめいた。

「じゃあ……『物』を書いても、具現化させることが出来る、ってことですよね?」
「うーん、間違いではないけど……ただ、精神力を多めに使っちゃうから気をつけてね」
「……精神力?」
「何かをしよう、っていう心のことだよ。これが少なくなると、体がだるかったり、何もしたくなくなったり、眠くなったりするんだ」
「それじゃあ、あんまり物を出さない方が良いってことですよね?」
「うん、そうだね」
「『物』が出せれば、私にも使える武器とか、咄嗟の時に回避出来たりとか、使い道が広いと思ったんですけど……」

 式神の鳥の攻撃を受けたとき、自分は何も出来ずに根雪に怪我を負わせたことが、栞にとって重荷になっていた。
 そんなことは、もうさせたくなかったのだ。

「まぁ、根雪たちを呼び出すにもそれなりに精神力を使うから、『お友達』を沢山出すか、少しだけだして後は『物』を出すか、戦法としてはどちらかだと思うよ」
「そうですか……」

 という事は、現在では『物』を出す戦法の方を必然的に取ることになる。

「もっと描いた方がいいですね……」

 このスケブは三十枚、60ページからなっている。だから、単純計算しても60匹は作れるのだ。

「あ、根雪たちの道具として作るんじゃなくて単純に『物』として作るんだったら、個別の部屋が必要だよ」
「えっ? じゃあ、どうやって『物』かどうかを判別するんですか?」

 普通のやり方では、例え剣だろうと意志を持って動くようになるのではなかったかと栞は首をかしげた。

「実は、『お友達』は生き物をイメージして作らないといけないんだ。だから、例えば壁とかハンマーとかに命を吹き込もうとしても、ただの『物』になるだけなんだ」「生き物ってことは……植物でも大丈夫、ってことですか?」
「栞ちゃんが、描けるならね」
「……何気に酷いこと言ってませんか?」
「ううん、何のこと?」

 確信犯だな、と栞は思った。
 なにやら腹が立つが、まだ聞きたい事があるので倒すわけにはいかなかった。

「……で、根雪たちの能力の話なんですけど」
「ああ……『お友達』の能力は、その子たちが初めから持ってる能力――例えば、根雪は宙に浮くとか――の他に、こちらが後から一つだけ追加できるんだ。例えば、根雪の『雪の盾』みたいにね」
「あれ、根雪にはその前にパンチを教えたんですが……」
「殴るっていうのは、栞ちゃんが教えただけで根雪には元々出来ることなんだよ。だって、手が付いてるでしょ? それに比べて、『雪の盾』は栞ちゃんが想像して根雪に伝えなきゃ使えないものなんだよ」
「へぇ……。ところで、その技って変更出来るものなんですか?」
「前の技を忘れる、という形なら出来る事は出来るけど……前にも言った通り、使えば使うほど鍛えられるから、よっぽどのことがない限り消さない方がいいね」

 何だか、栞は魔法少女というよりRPGの様なゲームをやっている気分になってきた。

「ふぅ……大体、使い方は解りました。他に、何かありますか?」
「後は……戻すときは、その子の部屋をかざせば出来るよ。戻すときにも精神力を使うけど、出すときよりはよっぽど少ないから消えてしまう前に戻してあげてね」
「はい」

 栞は、手元のスケブをじっと見た。
 今日の昼、対峙した北川の真剣な目を思い出す。

「……北川さん」
「北川君って、どんな人なの?」

 あゆが興味津々に聞いてくる。
 その様子は相手の情報を知る、というよりも純粋に興味からの様だ。

「北川さんは……多少調子に乗るところはあるけど、心配りを忘れない優しい人です。そう簡単には人を傷つける人ではないんですけど……」
「うーん、ボクは人間じゃないからかな?」
「どうなんでしょう? 多分、人間であるかどうかは関係ないと思います」

 しんとなる。
 お互い考えることが沢山あって……それぞれに、苦悩していた。

「そういえば……妖狐って言ってたね」
「……やっぱり、あゆさんの様な種類の一つなんですか?」
「ううん、ボクはボクだし、他に天使がいるかどうかすら知らないよ。ただ……この町には、元々伝承として妖狐の話があるから……伝説の生き物じゃないかな」
「伝説の生き物……」

 伝説の生き物といえば、水神――龍や、ドラゴンといったものか。

「……どんなヒトなんでしょうね……」

 天使の力が必要だ、とも彼は言っていた。
 ……他の方法はないんだろうか、と考えながら……夜は更けていった。




* 9 *




「ねぇ、どうだった?」

 家に帰ると、小さな女の子がベッドの上から跳び下りて寄ってきた。
 二つに結わえた栗色の髪と同系色の、狐の耳とふさふさの尻尾……そして、その大きさが彼女を人間という定義から外していた。
 独りで寂しかったのか、大きな尻尾がふりふりと揺れている。

「ん、今日は様子見って言っただろ?」

 帰ってきたこの部屋の主である彼――北川潤は、あっけらかんと言った。
 北川は片手でひょいと掬うように彼女を拾うと、自分の目線まで持ってくる。
 対して彼女は、怒った様子で頬を河豚のように膨らませてそっぽを向いた。

「何で? チャンスならさっさと倒して来てくれればいいのに。真琴はいつでも準備おっけーだよ」
「そうは言ってもなあ……物事には順序ってもんが……」
「そんなのはどうでもいいのっ。あなたは真琴のことだけ考えてくれればいいんだからっ」

 ……この傍若無人な子こそが件の妖狐、沢渡真琴であった。
 北川に拾われ、彼にあの折り紙を渡した張本人である。

「オレの立場ってもんを考えてくれよ……」

 北川は額を押さえて呻く。
 何故なら、相手は親友の彼女なのだから。

「はぁ……面倒なことになったな」
「それは、真琴を拾った時点で判ってたことでしょ?」

 ……そうだ。それを覚悟で、北川はこの子を拾ったのだった。
 昨日、もし真琴と出会わなかったら……こんな現実離れしたことなんて、一生経験することは無かっただろう。
 しかし、「情」によって拾ってしまった。そして……あの子と対峙してしまった。

「……相沢に知られたら、なんて言うかな、あいつ……」
「誰よ、それ」
「……オレの相棒、かな」

 北川はそう呟いた。
 彼の人生の中であれほど感覚が合う人間はそういなかった。
 人を警戒させないその人柄は、相沢祐一という人間の長所だと思う。

「今どき、相棒?」
「うるせぇな、オレは勝手にそう思ってるんだ」

 真琴は笑う。
 しかし、北川は知っている。
 ……彼女の命が、残り少ないと。
 知っているからこそ、その笑顔が空元気だということに、気付かされてしまう。

『まぁ、乗りかかった船、というのもあるが……こちらにも事情があるからな』

 昼、自分で言った事を思い出す。
 事情……そう、彼女には時間がない。
 だから、彼にも時間はない。
 何故か相手に同調させている自分に気付いて、北川は思わず呟いた。

「……まったく、お人よしだよな」
「え? 誰のこと?」

 急な言葉に、真琴はその意味が解らず首を傾げた。
 その様子は、その小ささも相まって人形の様な可愛らしさを見せていた。

「さあ、な」

 北川は微笑むと、真琴の頭を包むように撫でた。
 子ども扱いを嫌う真琴だったが、これには苦しそうながらも気持ち良さそうに身を寄せていた。




* 10 *




 翌日、栞は打倒北川の為、色々な物を部屋に運び込んだ。
 ……勿論、『お友達』を増やす為である。

「栞ちゃん、無闇やたらに創るんじゃなくて、ずっと大切にしてあげられるような子を創ってね?」
「はい、解ってます」

 だからこそ、栞は苦労しているのだ。
 この世に無駄な命なんか無い。だから、創り過ぎるなんてあってはならない。
 それが、多数ある栞の信念の一つだった。
 丁寧に、しかし納得のいかないところは描き直して。まさに牛歩である。
 あゆは暫く製作風景を見つめていたが、どうやら飽きたらしく外へ出て行った。

「……やっぱり、難しいものを描くのは大変……」

 今は、祐一に頼んだ結果でんと渡された、けろぴーを描いている。
 ついでにその所有者も来ているのだが、栞は意に介せず頑張って線を引く。

「やれやれ、名雪も大変ね」

 お茶を持ってきた香里が、おかしそうに微笑む。
 けろぴーが何をされるかと心配で付いてきた名雪だったが、特に酷いことはされないと判って今はのんびりリラックスモードだった。

「平気だよ。でも……」
「そうね……」

 栞の姉とその親友は、怪訝そうな顔をした。
 勿論香里にとって可愛い妹である栞を疑う訳ではないのだが、いささか現実離れしている話である。
 ……そう、栞は香里たちには簡単な説明しかしていなかったのだ。

「で……栞、それは一体、どうして動くの?」

 真剣にスケブに向かっている栞に、香里は話しかける。
 それにしても、地べたに座って描くのは背筋が曲がってしまうんじゃないかと心配してしまう。

「んー……」

 栞は生返事をした。
 苦手なことをやっているときというのは、他の事の数倍精神を使ってしまう。
 今の栞は、まさにその状態だった。

「ちょっと見せてくれない? 言葉だけじゃ信じるにも無理があるわよ」
「そうだよー。ちょっとだけでいいから見せて欲しいな」

 二人は栞の気を向けようと頑張っていた。
 普段余り物事に深く首を突っ込まない二人だが、気になってしまうととにかく気になる。
 その答えが目の前にあるのだから、知りたくなるのは人として当然だった。

「ん……」

 栞は筆を止めると、一枚前のページを開いた。

「おいで、根雪」

 ふっとスケブが光ったと思うと、30cmと少しくらいの雪だるまが飛び出してきた。
 目を見開いて驚く二人を意に介せず、栞は絵に戻った。
 根雪はどうすればいいか迷い視線をふらふらさせていたが、ご主人の様子を見て「邪魔するのを排除しろ」と判断して香里たちに向き直った。
 ……好戦的な目だった。

「あ、根雪ー。暫くお姉ちゃんと名雪さんに面倒看てもらってね」

 間一髪根雪の様子に気付いたか、栞が釘を刺す。
 根雪はその意味を理解し、警戒を解いた。
 その一連の出来事の間、二人は驚きで少しも動けなかった。

「……ほんとに雪だるまが動いてる……」

 香里が頭を抑えながら、うぅっと呻いた。妹と同様、かなり拒絶反応が出ているようだ。
 対して名雪は、ぱぁっと明るくなった。

「という事は、けろぴーも動くってこと?」
「えーと……けろぴーと同じものが出てくるとは限らないんですけど……」
「どういうこと?」

 首を傾げる名雪に、栞が言いにくそうに告げた。

「……私の画力によるので」
「じゃあ、駄目ね」
「お姉ちゃんっ」

 あっさりと断言する香里にいきり立つ栞。
 ……その時。

 ふっと、根雪が動いた。

「っ! 根雪、守って!」

 その声と同時に、根雪の手から盾が展開される。改めてみても、やはりその光景は綺麗だった。
 ……そして、盾に捉まって凍った物体が二つ……。

「やっぱり……折り紙ですか。まさか、私の部屋に直接式を送らせるなんて……」

 じっと紙を見つめていた栞は、窓辺に新手が来たのを確認した。
 どうやら、成果の確認と紙の回収をしにきた様だ。

「こっちが二枚持っておけば、相手の手数も減りますよね……これは、渡しませんよ」

 冷静に言い放つ栞。
 ……我が妹ながら、少し違う雰囲気に違和感を覚え、香里は戸惑いを隠せなかった。

「みんなみんな……私が一生懸命に絵を描いているのに邪魔をしてっ」

 ……原因は意外に身近だった様だ。




* 11 *




 栞は折り紙を二枚拾うと、新手を指差した。
 式神の方は、応援が来たのか新しい紙と合体して、身長50cm位の西洋人形へと変化していた。
 自動で動く人形の姿は、その大きさもあって奇妙だった。
 刺客というのに、フリルの沢山付いたドレスはどうだろう、と栞は思う。

「根雪、練習した通りに」

 栞が指示を出すと、根雪は体ごと頷いた。
 新たな絵を描くのと同時に、しっかり質も上げようと努力はしていたらしい。それにしても、スケブの存在を知ってからまだ三日目である。
 栞は、とてつもない適応力を見せていた。
 ……一日の重み、というやつを知っているからかも知れない。

 人形は、ゆっくりと歩き始めると、敵の構成を分析し始めた。

――戦力一体、援護一体、その他二体。最低作戦成功率50%、最低戦闘勝利可能性……

 人形が動き出す。
 大人しい印象を受ける西洋人形が無表情で全力疾走してくる様はかなり怖い。
 名雪は後ずさりし、香里も表情が固まっている。

「根雪!」

 その声と同時に弾ける様に飛び出した根雪は、胸骨を狙って右で打つ。思わず防御に回った相手の右腕と肘を取り、体を人形の懐にすべり込ませ、大地を蹴る代わりに軽く浮いた。
 ……背負い投げと気合投げを足して二で割ったような技だった。

「六法全書、おいで!」

 背中を向けながら飛んでくる人形に向けて、栞がスケブを向けながら言った。
 スケブから飛び出す、六法全書。
 飛び出すといっても元々出すものだからその姿が出るまでしか飛び出さないのだが、タイミング良く使えば充分攻撃になるほどの衝撃だった。
 背中に強打を受けた人形が、前向きに吹っ飛ぶ。
 ……根雪の所へ。

「――『雪の盾』」

 根雪が、白い盾を展開する。
 このまま飛ばされてきた人形が凍って、戦闘終了の筈だった。

 ……しかし。

「えっ?」

 目の前の、人形の周囲が歪んだかと思うと、盾を押しのけた上に空中で体勢を立て直し、更に人形は跳んだ。
 ……何の足場もないのに。
 空を蹴ったのだ。

「根雪!」

 背後に回った人形に対して、裏拳を仕掛ける根雪。
 しかし、再び生じた歪みに根雪は弾き飛ばされた。

「根雪!」
「……風?」

 倒れる根雪に駆け寄る栞ではなく人形の方を見つめながら、香里は呟いた。
 それに合わせて、名雪が訊ねる。

「あれ、風なの?」
「大きな気圧差がある場所は、光の屈折率が変わるから歪んで見えるのよ。身近な例で言えば、陽炎ね。あれは、水蒸気の所為で歪んでるんだけど……」
「……とにかく、昨日の様には行かないって事です」

 栞は唇を噛んだ。
 人形が、風を纏いながら微笑んだ気がした。




 雪の盾には、弱点があった。
 それは、一定空間の温度を下げるという性質の為、風を操る相手には干渉されてしまって本来の効果を発揮することが出来ない事だった。
 栞は策を考える。
 けろぴーはまだ描き上がっていない。結構難しいのだ。
 それを早く完成させるか、それとも違う絵を……。
 とにかく、根雪に何か指示を出さなくてはならない。何か対処できる策を考えてあげなくてはならない。
 昨夜考えた組技戦法は破られた。いや、もっと鍛えれば有効だとは思うが、何分練習時間が少なかった。
 新たな技を覚えさせては、折角何度か実践で使った雪の盾の経験を無駄にしてしまう。
 香里と相談する時間も場所も無い。
 ……それを言ってしまえば、描く時間もないのだが。
 そして、栞が出した結論は。

「お姉ちゃん……今根雪に出来る事は今見せたことだけ、これだけでこの人形の時間稼ぎをする方法を考えてっ」
「でも、流石に時間が……」
「時間なら今作るっ」

 そう言うと、栞は根雪の手を引っ張った。
 つられて、人形も栞の方へ動く。

「根雪、お願いっ」

 その言葉と同時に、栞は窓の外へ飛び出した。

「ちょっ……外は雪積もってないわよ!?」
「栞ちゃん!」

 香里と名雪が叫ぶ。
 しかし、栞は根雪を下にすると、根雪が浮くことでブレーキをかけた。
 勿論衝撃は受け止められないが、それは二人が受身を取ることで軽減した。

「なんて無茶を……っ」
「お姉ちゃん、よろしくっ!」

 栞は走った。
 靴下の上からではたまにある小石が痛いが、それも仕方ない。
 根雪が心配そうにこちらを覗き込むが、栞はにこりと微笑み返した。

「追いかけてくるね……でも、あゆさんが見つかれば……」

 栞は、香里が考えるのとは別に、自分も作戦を考えていた。
 しかし……それは、あゆが見つかったらという限定条件のもの。
 そんな不確実なものはまだ『作戦』とは呼べない。
 それに、『三人寄らば文殊の知恵』とも言うし、頼んでおいて損は無い。

「……でもっ……あゆ、さん……一体どこにっ……」

 独り言でも走ってる最中に喋るんじゃないと後悔しつつ、栞は全力で逃げていた。
 ……そのとき。

 ぐいっと、根雪に首根っこを掴まれて、栞は動物の仔の様に体を浮かせた。
 少し首が絞まって、息が詰まる。

「ぅくっ……」

 栞がいたところを何かが通ったかと思うと、その先の突き当たりにある空き地の砂が一直線に舞った。
 ……突風が突き抜けたのだ。
 当たれば、思いっきり転んで下手すると打撲などの怪我ではすまないかも知れない。
 明らかに、容赦ない攻撃だった。

「あぶないなあ……北川さん、私を殺す気ですか?」

 この場にはいないだろう北川を想い、頬を膨らませ怒る栞。
 ……状況に似合わず、どこか平和そうである。

 栞が体勢を立て直して敵の方を見ると、人形は息一つ切らさず優雅に立っていた。

「むぅ……何だか、外に出て強くなってません?」

 相手は風だからね、と言いたそうな根雪の目を、栞は視界の隅ではっきりと捉えていた。




* 13 *




「あゆさん、一体どこかな……」

 のんびりとした口調の裏で、栞はとても焦っていた。
 今までもあれだったが、今回は下手すると死ぬ事すら覚悟しなければならないかも知れない。
 昨日から今日までの事を思い返すに、北川は手加減が出来ないんじゃないかと栞は思う。
 大体、北川はいつも攻めで遠隔操作なのに対し、女の子の自分が毎回危ない橋を渡るのはどうかと栞は考えるのだ。
 栞は北川の焦りを知らないので仕方がないのだが……。

 相変わらず、相手は風を高速で飛ばしてくる。
 それを、根雪は栞を引きずったまま避けるのだ。

「くふっ……うぅ、段々苦しくなってきた……服も伸びるし……」

 首元に手を当てているお陰で多少は平気であるものの、これ以上振り回されては栞も栞の服も危険だった。

「根雪っ……ちょっと一人でこらえてねっ」

 そう言って、栞は根雪の手を振りほどく。栞は受身を取った後、スケブを開いた。
 開いたページは、あゆの部屋。

「有効範囲は判らないけど……試してみるしか!」

 『お友達』ではない、とは言っていたものの、同じ種類だと言っていたので、回収出来るかと思ったのだ。
 ……ただ、物を貫通しても出来るのか、どのくらいの距離まで可能なのかは判らなかったので、半ば賭けであった。
 ジリ貧の状態よりは、と行動に出ることにしたのだ。

「んーと、根雪を仕舞う時の感覚だから……」

 適当にぐるぐると探るようにスケブをあちこち向ける栞。
 背を向けているので、後ろから根雪が戦っている音が聞こえる。
 ……何も出来ないことに苛立ちながら、栞はあゆを探していた。
 一分経って、諦めて他の作戦を考えようと思ったとき……ある種の感覚が伝わってきた。
 あゆを引き寄せているのが、感覚として把握できた。

「わ、本当に呼べ――」

 た、と言おうとしたとき、栞の体は宙を浮いていた。
 目を大きく開いた栞の目には、天地が逆さまに写っていた。
 どうやら根雪が避けたときに、栞を掠めてあおられた様だった。

(……あれ?)

 自分が、吹き飛ばされているという感覚がなかった。
 そして、栞はそのまま――。

 ――アスファルトに叩きつけられた。


 あゆが呼び出されたとき最初に見た光景は、頭から血を流して倒れている栞と……その盾となっている根雪の姿だった。




* 14 *




「栞……ちゃん?」

 あゆは呆然とその光景を見つめていた。

「栞ちゃん!」

 すぐに近づいて、体を揺さぶろうとしてふと手を止めた。頭を打ったときは揺すってはいけない、と聞いた事があったからだ。
 どうしようか判らなくて迷っているうちに、栞は目を覚ました。

「……あゆさん……っく! あゆさん、私と一緒に瞬間移動って出来ますか!?」

 数秒視線が定まっていないようだったが、弾けるように起き上がるとあゆに訊ねた。

「え、え? 多分、出来ると思うけど……」
「私を瞬間移動で連れながら、相手の気を引いて逃げ回ってください! このままじゃ根雪が落ちます! 10分ほどで何か描くので、その時間を下さい!」
「でも栞ちゃん、血が……」
「額を切っただけです! くらくらしますが、多分大丈夫ですっ」
「うっ、うん、わ、解った!」
「根雪! 戻って!」

 スケブを開くと同時に根雪を回収するのを見ると、あゆは瞬間移動をして人形の背後に回った。

「鬼さんこちらっ、手のなる方へっ」

 あゆの声を受けて、そちらに人形は視線を向ける。
 そして、栞の存在も認識した。

――援護一体撤退、一体加勢。戦闘時間延長の可能性95%……

 まるで機械の様な判断をしながら、人形は的確に攻撃を開始した。
 しかしあゆは、それを瞬間移動で交わす。
 それを人形の方は索敵で位置を把握し、攻撃を開始する。
 もぐら叩きの様な戦いだった。

「し、栞ちゃん、もうあまり持たないよ。これ以上は、栞ちゃんの精神力を使うことになっちゃうよ」
「捕まったらもう勝ち目はありませんっ!」
「うん……解ったよっ」

 栞は激しく揺れる中、頑張って一筆一筆丁寧に描いていた。
 こんな状況でも、さっさと描いた適当な物にしたくなかったのだ。

「こっちこっち……って、うわぁ!」

 今までの行動パターンから、人形は次にあゆの出る場所を解析していた。
 ランダムな行動は、機械でもない限りその人によって固有のものになりやすいのだ。
 あおられ、栞はあゆと共に、再度吹き飛ばされた。

「……よし、出来た」

 栞はスケブを手前に見せながら、言った。

「おいで、牡丹(ぼたん)、氷室(ひむろ)、氷南(ひな)」

 ――呼び出したのは、三羽の雪ウサギだった。




* 15 *




「根雪」

 続けて、栞は根雪を出して綺麗に着地した。
 その前の空間を、三つ子の雪ウサギが浮いている。
 立ち上がろうとして、栞はふらついた。

「栞ちゃん!」

 空中で体勢を立て直したあゆが、近くに寄ってくる。
 あゆの見たところ、出血のせいで貧血になっているんじゃないかと思う。

「……大丈夫です、あゆさん」

 栞の目は真剣だった。
 少し虚ろだったが、それでも真っ直ぐ前を見つめていた。
 それは、最初に出合った頃とは違っていて……栞ほどこれを扱える人はいないだろうと思う反面、栞が持ち主になってよかったのだろうか、とも思ってしまう。

「牡丹、あなたは突撃……敵を蹴散らす能力」
「氷室、あなたは回復……傷を治せる能力」
「氷南、あなたは射撃……敵を射る能力」

 根雪を仕舞いながら、栞は端的にその役目を告げる。
 教える時間も、試す暇も無い。けれど、個々が自分の役目を果たせるように……栞は能力を考えていた。
 目の前の敵に勝つために……そして、新しく出来た『お友達』とずっと暮らせるように。

 長く立ち止まっているのを隙と判断したのか、人形が突撃してくる。
 それに合わせて、栞も動いた。

「牡丹、氷南、別命まで攻撃!」

 栞の号令と同時に、氷南から光線が発せられる。
 人形は風で払おうとするが、貫通力が高い光線に押し切られ、直撃した。すると、光線の当たった場所から瞬時に凍りつく。
 それと同時に、光線が霧散した。どうやら光線だと思っていたのは、空気中の水分が急に冷やされ一種のもやとなったものらしかった。

 一方牡丹は、同じような白い気体を纏いながら、高速で人形に突っ込んでいった。
 人形は避けようとするが、地面と足が氷でくっ付いてしまっている。
 それならばと防御しようとするが、腕は凍っていて、まるでギプスをはめられたようだ。
 風で押し戻そうとする。
 しかし、空気抵抗の少ないそれは、風では止まらない。止められない。

――回避・防御・迎撃不可。予想損害……

 牡丹は、人形の体を打ち砕いた。

「……倒した?」

 戦いの余韻に浸りながら、栞は強張った声で言う。
 今まで苦しめられていたのが嘘の様な、あっけない幕切れだった。

「お、終わった……」

 力なくへたりこみ、栞はがっくりとうな垂れた。
 そこへ氷室がやってきて、栞の頭を光で包む。
 光の周りからは、虚空から氷の粒が出来、大きくなって地面に落ちていった。どうやら、周りの熱を集めているようだ。

「一気に三体も創って、大丈夫?」
「大丈夫、じゃ……ない、かも……」

 そのままブロック塀に体を預けると、そのまま寝息を立ててしまった。
 緊張と、痛みと、恐怖と……色んなものから解放されて、気が緩んだのだ。

「……そんなに、ボクの力が欲しいの……?」

 自分の為に栞が尽力してくれるのは嬉しい。
 けれど、その所為で昨日今日だけで栞はどれだけの傷を負ったのだろう。
 それを一番近くにいて感じるからこそ、あゆはそれを考える度に苦しくなるのであった。




* 16 *




 短いようでとても長かった休日が終わり、また学校へ通う日々が始まる。
 北川に鉢合わせしてしまうかも知れないと気が重かった栞だが、まさかそんな理由で学校を休む訳にもいかず、また、したくなかった。
 相手もそう思ったかどうかは定かではないが、幸いにして昼休みまで会う事はなかった。……というか、学校ではこれからが一番遭遇の可能性が高いのだ。
 最近ではほぼ毎回北川は栞の弁当を祐一やその他の面々と一緒に食べている。
 教師に呼び出されたとか、そういうこと以外では席を欠かすことがなかったのだ。

「はぁ……」

 自然と、栞の緊張も増してくる。
 生徒がごった返す中いつしか指定席となった席に独りで座りながら、思わず栞はため息をついた。
 下手すれば死んでしまうような勢いで攻撃してきた人と、面と向かって食事をするかも知れないと思うだけで、北川が本当はそんなことをするような人間ではないと思いつつも胸を締め付けられる様だった。

 俯いていた栞の視界の隅に、男の足が見えた。
 反射的に顔を上げる。……そして、それが祐一のものであることに安堵し、自然に顔が綻ばせた。

「……よう、待ったか?」
「いえ、今来たところですよ」

 ポケットに手を突っ込んだまま挨拶をする祐一に、栞は席に着いたまま微笑んで返した。
 ほっとして、気が緩む。
 やはりこの人は自分の中で大きく占めていて、安心出来る存在なんだと栞は再認識させられる。
 その根拠のない安心感が、彼の魅力だと栞は思うのだ。

「他の皆さんは?」
「ああ、名雪と香里なら後から来るってさ」

 寝てた名雪が香里のノート写してるんだよ、と祐一は笑う。

「……北川さんは?」
「ん、北川? あいつは今日は用事があるんだってさ。しかし、珍しいよな」

 祐一のその一言で、避けられていることを実感する。
 それは、北川なりの気遣いなのだろうか。
 彼ならそういうところがあっても理解出来るし、逆に平然と姿を現しても自然な気がした。

 仕方がないので、二人で先に昼食を始めることにする。
 二人で食べるには多い量だったが、途中から香里たちが参加していつもより少し多い昼食となった。
 それは栞にとって久方ぶりの休息で、心から笑えた一時だった。

 ……そして、気付く。
 あのスケブを手に入れてから、どれだけ自分が緊迫した時間を過ごしてきたかを。
 北川に宣戦布告され、それから今まで、死と隣り合わせの連続だった。
 一旦は死を覚悟した事のある栞でさえ、後から怖かったと感じるほどの張り詰めた時間を過ごしていたのだ。

 どうして、北川があんな攻撃的な式神を送り込んできたかは、本人に訊かなければ判らないけれど……どうしてか、栞は北川を恨む気にはなれなかった。
 何故なら、北川らしくなかったから。
 色々考えることが増えたな、と栞は思う。
 今までは一つの幸せのことばかり考えていて……それだけの、生活だったのに。

「……あの、祐一さん」
「――ん、どうした?」

 流れていた話を少し切るような形で、栞は訊ねた。

「これからも、よろしくお願いします」
「……は?」

 これは、ある種の願掛けだった。
 ずっと、祐一の傍で笑っていられるための。

 巻き込まれた形の栞だったが、それを誰かの所為にして負けたくなかった。
 どうせやり始めたなら、最後まで。
 北川が何のためにあゆを狙い、力を得ようとするのか……栞には判っていないけれど。

 どのような結末になろうとも、栞はこの力に出会えて良かったと思う。
 だから、必然的にそう思えるように……負ける訳にはいかなかった。

「言葉通り、ですよ」

 姉のように強くなれたら、そう栞は思った。




* 17 *




「で……これで今栞ちゃんが使えるのは、根雪と、牡丹・氷室・氷南の四体だね」

 夜、栞の部屋であゆは整理するようにそう言った。

「あと……名雪さんのけろぴーを描いた百年(ももとせ)です」
「……ももとせ?」
「百年、の訓読みです。最初は『春夏秋冬(ひととせ)』、季節が返る(蛙)ことからこの名前にしようと思ったんですが……それだと、一年だけしか生きないようなので、沢山、の意味がある『百(もも)』を使いました。『万(よろず)』だと少し名前としては長いかな、と思ったので」
「ふ、ふーん」

 あゆは生返事しかしなかった。
 多分、頭がついていかないのだろう。

「って、もしかして、みんな名前の由来ってあるの?」
「はい」
「……よく、毎回短時間で思い付くね……」
「私の取り柄ですから」

 栞がにっこりと微笑む。
 というか、牡丹たちの時は本当に時間が無かったはずだ。
 あゆは、ここに優等生の姉と血を分けた証拠を見た気がした。

「で、百年には何か能力を付けたの?」
「はい。根雪と同じ近接攻撃なんですけど……根雪は器用ですけど、力がありません。前回破られた雪の盾はある程度経験を積みましたから間接的な攻撃なら防御出来ると思いますが、強力な物理攻撃には絶対勝てないと思うので……そこを補強してもらうことにしました」
「牡丹は? あの子も攻撃用でしょ?」
「あの子は言わば『槍』です。攻撃したら絶対に回避しなければいけません。攻撃力は高いんですけど、防御力が低いのが欠点ですね」

 戦力の問題点を正確に判断し、処理対応出来る栞に、あゆは感嘆するしかなかった。

「……ねぇ、栞ちゃん。もしかして……RPGとかシュミレーション(←間違えてる)とかのゲームって、得意なの?」
「え……っと、テレビゲームには興味なかったので全然やったことないですよ」
「へぇ、そうなんだ」

 あゆは栞の行動に驚くしかなかった。
 ……何故、只の少女がここまで冷静に判断出来るのだろうか、とあゆは考える。
 栞自身を守るため?
 それとも、自分を守るため?
 敵が北川君だから?
 それとも……。

 あゆの中で、色々な考察が飛び交う。しかし、それも全ては推測でしかない。
 本人に訊いてみたいとも思うが、栞自身がそれを拒否しているような雰囲気を出しているので、訊きたくても訊けなかった。

「……そうだ、経験を積ませたいなら、お互い戦わせてみれば? 即死じゃなければすぐ助けてあげられる訳だし」
「あ……それもそうですね」

 今思いついたと言わんばかりに、栞が目を見開く。

「そうそうあゆさん、訊きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「他に、これの使い方ってあるんですか?」

 栞がスケブを指しながら訊ねる。
 確かに、栞にとっては知っておくだけで何か思いつきのきっかけになるかも知れないだろう。
 それで、もしかしたら打開策が生まれるかも知れないのだ。

「他に……ねぇ」
「特殊な条件とか、そういうのでもいいので」
「特には、無いはずなんだよね……」
「……はず?」

 聞く可能性のなさそうな単語を耳に挟み、栞が聞き返す。

「ボクだって、これについて全てを知ってる訳じゃないんだ。気がついたらボクはこのスケブと一緒にいたけど、ボク自身が使ったことがあるわけじゃないし」
「じゃあ、何でスケブの使い方を知っていたんですか?」
「うーん、何故か知ってた」

 つまり、この目の前でふよふよ浮いてるちっこい天使の、『こうなるはず』を信用して今まで栞は動いてきたことになる。

「もしその通りに行かなかったらどうするんですかっ!? 危うく死にそうな目に会った事もあるんですよっ?」
「ま、まぁ、そうなんだけど……とりあえず良かったじゃない」
「それは結果論です!」

 栞は今更になって冷や汗がだらだら出てきた。
 今まで切り抜けてきた策の数々は、かなりの割合で山勘も入っていた訳だ。
 死ぬかも知れないという状態を機転で切り抜けていた栞にとっては、違う選択肢を取っていれば今頃あの世かも知れない。

「あゆさん……とりあえず、貴女は何で自分がそれを知っていたか頑張って思い出してください。私は、絵の練習をすることにします」
「絵の練習?」
「もしかしたら、今回みたいに咄嗟に新しく絵を描かなきゃいけない場面があるかも知れません。その時に、しっかり描けなければ命取りとなることもあるでしょう。……あの人形が本当に北川さんの放ったものだとすれば、本当に」

 そう言って、栞は机に向かって筆を取った。




* 18 *




 話は前日に遡る。
 栞が、あの人形に襲われた日――三日目の話だ。

「おかしいなあ……」

 北川は、首を傾げていた。
 もらった折り紙は全部で50枚あるはずなのだが、幾度数えても4枚足りないのだ。
 まあ、50枚の内の4枚なので余り気にする必要もない気がするが、今まで全て回収してきた手前、とても気になるのだ。

「どうしたのよ、変な顔して」
「誰が不細工だ」
「不細工なのはあなたの心でしょ?」
「……ああ言えばこう言う……」
「なんか言った?」
「はいはい、何も言ってませんよ」

 机をよじ登ってきた真琴を無視して、まさか数え間違いではないかともう一回数え始める。
 ……まあ、もう五度も数えているのだが。

「何してるの?」
「紙が足りないんだ。今は何も式を使ってないから、ちゃんと50枚あるはずなんだが……」
「えっ!?」
「失くしたっていうのはないはずなんだよな……今まで使う分しか持ち運びしなかったから」
「……あなたって、意外と几帳面なんだね」
「どういう意味だ?」

 北川は訝しむ様子で真琴を見た。
 それに対して、真琴はどこかそわそわして様子がおかしい。
 多分、嘘が付けないと言うか……隠密行動系に向いていないのだろう。

「……どこへやった?」
「な、何のこと? 真琴が何をしたっていうのよぅ」

 真琴の言葉とは裏腹に、北川はその疑いを確信に変えていた。

「……もしかして、栞ちゃんのところに……」
「ま、真琴知らないっ!」

 机から跳び下りる真琴。しかし、その空中で北川が真琴をむんずと掴んだ。
 胴体がすっぽりと手の平に収まり、真琴はじたばたと暴れる事も出来なかった。

「む、むぅ〜!」
「早く話せ。自分が何をやったか、な」

 顔を真っ赤にしている真琴に対し、平然とした顔で言う北川。
 どこか、こういう事には慣れている風だった。

 ……その時、真琴の耳の毛が白っぽく変わった。

「ん?」

 北川が気付いた時には、全てが遅かった。
 真琴の周りに、マッチで点けた程度の火が突如現れたのだ。

「っ……あちっ!」
「きゃっ!」

 反射的に真琴を振り払う北川。
 仕方ないと言えば仕方ないが、その所為で真琴は地面に叩きつけられた。

「何だよそりゃ!」

 突然の火もそうだが、何よりその雪の様な耳と尻尾だった。
 まるでキタキツネの衣替えのような……いや、それより白いかも知れない。
 北川は、真琴が妖怪の一種である事を改めて認識した。

「だって、真琴は妖狐だもん。狐火くらい出せるわよ」

 頭をさすりながら、真琴は答えた。
 落としたことについては、自分が悪かったと思っているのか指摘してこなかった。

「……で、力を手に入れるために、栞ちゃんを襲ったのか」

 北川についても、最大の関心事はそこだった。
 驚いたと言っても元から妖狐だという事は知っていたし、何より重要度が違う。

「そうよ。あなたが消極的でじれったいから、真琴が仕掛けたの」
「じれったい、ってまだ昨日の今日だろ? 気が早すぎだ。それに、下手にやってあの子に怪我でもさせたらどうするつもりだ?」

 あの子、とは栞のことだ。
 北川にとって祐一は大事な親友であり、その恋人である栞も大切だった。
 だから、前回接触したときは栞の能力を観察するに留めたのだ。
 北川はこれを手に入れてもう半月になる。だから、強引にやれば勝てたのかも知れないが……それでも、栞が傷付くのを恐れたのだ。

「真琴だって、時間がないの! 少し怪我するくらい別にどうってことないでしょ?」
「……そんなことは解ってる。だが、オレはオレが正しいと思うようにやる。お前は手を出すな」
「でも……!」
「それから、その狐火とやらも使うな。無駄に時間を削るだけだ」

 そう言って、北川は自室を出た。

(じゃあ、紙は栞ちゃんのところか……)

 もしかしたら消されてるかもしれない、と北川は思った。
 しかし……真琴の言い様では多分相当手荒くやっただろうから、例えそうされても仕方ないと思ってもいた。

「……ただ……明日栞ちゃんの弁当食べに行けなくなっちゃったじゃないか……」

 毎日栞の弁当を楽しみにしていた北川にとって、辛い出来事であった。




* 19 *




 栞は、今後について考えていた。
 戦力はもう殆ど充分だと思えるほどにそろった。しかし、そこから先が問題なのだ。
 ――勝利条件。
 何をもって戦闘終了とするかが、こちらには明確でないのだ。
 今まで、相手の放った刺客――式神を撃退していただけで、常に相手先攻の相手主体で話が進んでいる。

「北川さんに憑いてる、妖狐……」

 あゆの力が必要だ、とはどういうことだろうか。
 しかし、妖狐というとマイナスなイメージで、天使というとプラスなイメージだ。力というのは相反するものではなく、中立するエネルギーの様なものなのか。
 そもそも、妖狐というのは本当なのだろうか。
 この町には、ものみの丘の妖狐伝説が伝承されているが、その妖狐が実在して北川に憑いたということか。
 しかし、伝承では人の姿になって消えていく、悲劇的な存在であるはずなのだが……。
 栞の中で様々な疑問が浮かび、仮説を立て、そして推論する。
 更にそこから疑問が浮かび……と、際限ない思考地獄に陥っていた。

「はぁ……とにかく、北川さんを倒して、折り紙を全て燃やすしかないのかなぁ」

 栞は、手元にある折り紙を見た。
 これを使って、北川は昨日、猛攻を仕掛けてきたのだ。
 今日は学校とはいえ、一度も接触を図ったこなかったのは幸いだった。

「物騒なこと言ってるわねえ」
「あ、お姉ちゃん」
「食後のアイス、持ってきたわよ」

 そう言って、姉はアイスとスプーンを渡す。
 硬くなっていた栞の表情が、ぱあっと綻ぶ。

「ありがとう。……物騒なこと、って?」
「倒すとか燃やすとか」
「あ、うん……」

 いつの間にか、栞はそういうことを考えるのが当たり前になっていた。
 少し、適応能力が高すぎる……そう香里は危惧していた。
 自分の余命を宣告されても笑っていた妹だが、それは時事の流れから自然と推測可能なことであり、今回みたいに把握する時間がなかった訳ではない。
 しかし、今回は違う。
 話を聞くと、まだこの非科学的な出来事に巻き込まれたのは三日前だというではないか。今日を含めて四日の期間で、果たしてここまで順応できるものなのか。
 まぁ、制限時間三日で殺し合え、なんて無茶苦茶な小説があったが……やはり、生死に関わることを経験した人間というのは、ここまで急激に価値観が変わってしまうものなのだろうか。
 かく言う自分も、幼き頃は魔法などに多少憧れを抱いたときもなくはなかったが、これが現実かと違う意味で実感させられた。

「それにしても、あの北川君がね……」
「うん……『こっちにも事情があるからな』って言ってた」
「……」

 香里は暫く黙った後、口を開いた。

「……ねぇ、栞」
「ん?」
「……その事情、聞いてみたい?」
「うーん、聞いてみたい、けど」
「けど?」
「……もしそれが止むを得ない事情なら……迷っちゃうから、聞かない」

 その栞の言葉には、自らの意志が篭っていた。
 何にも曲げることのない、屈することのない……強い意志だった。
 きっと、香里の知らない所で得た経験が、ここまで栞を強くしたんだろう。

「……そう」

 香里は、その言葉だけをようやく口に出すと、部屋を出て行った。

「うん……私は迷わないって、決めたんだから」

 栞は、改めてその認識を強く持った。




* 20 *




 どうやら前日は、束の間の休息だったらしい。
 栞は帰り道、祐一と一緒に帰っているところを襲われたのだ。
 今度はリアルなギミックの付いたロボットだったが、いつの間にか四方投げを身に付けた根雪に投げ飛ばされ、何故か発電装置と導線を持った栞にショートさせられ動かなくなった。
 あっさり片付いたと思ったら、機械ではなくゴーレムの一種だったらしく復活。
 しかし、雪の盾と氷南の光線でがちがちに凍らせられた挙句、百年の一撃でばらばらになった。

「……さて、一昨日の私のように、痛い目にあってもらいますよ、北川さん」

 その言葉に一番驚いたのは、北川ではなく、祐一だった。

「北川がそんな力を持っている事も驚いたが……栞を痛い目に、てどういう事だ?」
「……その件については、言い訳はしないさ。本意ではないとはいえ、オレの所為で栞ちゃんを傷つけたからな」

 北川の物言いでは、手加減が出来なかった、と誤解されても文句が言えないだろう。
 しかし、栞はこう訊ねた。

「その式神が、どんな姿だったか覚えていますか?」
「……どういうことかな?」
「私には、あの式神が北川さんの放ったものだと思っていません。あんな子を創る程、北川さんは気配りの出来ない人じゃないと私は思ってますから」
「栞ちゃん……」

 一応敵味方に分かれたとはいえ、栞にとっては信頼していた人間である。
 だから、あの刺客が自分の知っている北川から放たれたものだと、思いたくなかったのだ。

「……栞、じゃあ北川を痛い目に合わせる必要ないんじゃ……」
「私の知ってる式神遣いが北川さんだけなので、とりあえず攻撃されて怪我した怒りをぶつけたいだけです」
「んー、まぁ、北川ならいいか」
「いいのかよ……」

 栞にやられることくらいは覚悟していた北川だが、部外者である祐一にあっさり言われると少し悲しくなってくる。

「北川さん……もう、終わりにしましょう」

 突然変わる話の雰囲気に、北川は完全に呑まれていた。
 しかし、北川には退けない理由がある。

「……それは、出来ない。どうしてもというなら、大人しく負けてくれ」

 北川の目は真剣だった。
 栞と同じく、真っ直ぐで、迷いの無い目。
 だから、栞は自分の考えを告げた。
 真っ直ぐに、思った通りに。


 ……この五日間、私は目まぐるしい日々の中で、色々考えました。
 いつ襲われるか判らない中、あらゆる状況に対する対策をいつも頭の中で張り巡らせて……。
 確かに北川さんの攻撃は退けてきたし、根雪たちも強くなりました。けど……。
 けれど、それって『私』の生き方じゃない、そう思いました。
 だって、いつも何かに追われてて、余裕のない生活なんて……おかしいじゃないですか。
 何故いつも警戒しながら過ごさなきゃいけないんですか?
 何故、対処法をずっと頭に叩き込みながら耐えなきゃいけないんですか?
 私だって女の子です。
 笑いたいし、泣きたいし、大好きな人に甘えたいし、デートもしたいし……。
 そんなのが出来ないなんてもう嫌なんです。
 ……だから、私はあなたに宣戦布告します。
 土曜の夜、噴水公園で決闘しましょう。
 もし違えるならば、迷惑を承知であなたの家に直接攻撃を仕掛けます。


 現在、国法律では決闘は禁止されている……と口を挟む雰囲気では到底なく、祐一はどうすればいいか迷っていた。

「……解った、受けよう。だが、そろそろオレの方にも時間がない。本気で行かせてもらうから多少の怪我は覚悟してもらうぞ」
「はい。承知の上です」

 ……こうして、栞と北川の決闘が行われることになった。




* 21 *




「本当にやるのか、決闘?」

 帰り道、祐一は栞に訊ねる。
 栞が滅多に自分の意見を変えない人間だとは理解していたが、それでも祐一は訊かずにはいられなかった。

「はい。平穏を取り戻すために頑張りますよ、私は」
「むぅ……」

 巻き込んだのが自分である手前、祐一は栞に強く言えない。
 一緒に居たいというのも同意だし、とかく感覚的には栞の論に共感してしまうのだ。
 しかし……。

「……まぁ、無理はするなよ」
「はい」

 にっこりと微笑む栞。
 それは昔までの悲壮さは無かったが、それでも祐一にとっては心配の種であった。

『じゃあ俺も、何か護身術くらいは身に付けておかなくちゃなっ』

 祐一は、自分の言葉を思い出す。
 あの時は何も考えずに発した言葉だったが……今になって、少し重いものとなっていた。

(……あの頃はまだ、気が楽だったよな……)

 ただ……あゆのことだけが問題だった数日前の事を思い、祐一はため息をつく。

「……祐一さん?」

 そのため息に、栞が反応した。
 『無理をするな』という問いに答えたことに対してやられたと思ったからだ。

「ん、ああ……いや、何でもないよ」
「そうですか?」
「ああ」
「……解りました」

 納得はいかない様子だったが、栞はあっさりと退いた。
 あまり祐一に余計な心配を重ねたくないと思ったのだろう。

「……栞」
「はい?」
「助けになってやれなくて、ごめんな」

 急に謝られた格好の栞だが、驚きの表情の後すぐに微笑んだ。

「……いえ、祐一さんは助けになってくれてますよ」
「どこが?」
「そうですね……例えるならば、全てです」
「…・・・例えじゃないと思うんだが」
「いえ、それでいいんですよ」

 一緒に居てくれるだけで、それだけで充分な人。
 だから、それを守るために栞は立っていられる。
 踏ん張れる。
 守れる力を持っているのは、自分だけだから。

 それだけで、戦える。




* 22 *




 いつしか、こう思うようになっていた。

『あの子は、帰ってくる準備に手間取ってるだけなんだ』

 そう思うことで、幾分か気が楽になっていた。
 ……気を楽にしていた。



 目覚まし時計などに頼ることなく、定時に天野美汐は目覚めた。
 今日は始業式で、美汐は二年生になる。
 そんな今日の行事を思い浮かべながら洗面台で顔を洗い、歯を磨く。さっぱりしたところで、美汐は早速着替え始めた。
 ちなみに、まだ夜が明けて久しくない。それこそ、冬は夜明けと同時に起きるほどだ。

 所謂巫女服に着替えた美汐は、母屋を出る。
 美汐の実家は、ものみの丘の麓に建てられた神社である。
 普通、麓ではなく中に建てるものだが……丘自体が小さく、その祀る対象である狐の棲む場所を奪いかねないことから麓に建てられたのだ。
 その神社の一人娘が、美汐である。
 その性格は寡黙だが、無愛想や冷血とは違い人付き合いを遠ざけている故だった。

 ざっざと、規則正しい音が聞こえる静かな境内は、朝特有の青い風景の中に太陽の赤が少しずつ混ぜられた様な神秘的な様子だった。
 これから一日が始まる……そう感じさせる風景だ。

 暫くして、掃き掃除が終わる。
 もう太陽も元気を取り戻し、周りも充分明るくなってきた。
 いつもの日課を終えた美汐は、箒を片付ける為に物置に向かった。

 この神社は、入って正面が本堂、右手が母屋で、物置は左手奥だった。
 必然的に、物置に行くときはものみの丘へ向かうような格好になる。
 なるほどこうしてみると、小さい丘も大きく見えるものだ。
 森が盛り上がっているだけで、こうも大きく、神秘的なものに見えてしまうのは何故だろうかと、いつもは考えないようなことを美汐は考えていた。

 ……ふと視界に、いつもと違うものが入った。
 それは、青年だった。
 おそらく、自分より一つか二つ上だろう。
 どうしてこんな所に男の人が、と警戒しかけて、美汐は気付いた。

「……美汐」

 成長はしているが……『あの子』の面影があった。
 直感で、『あの子』だと確信していた。例え、昔は自分より幼かったとか、そういう不合理があったとしても。
 美汐は驚くばかりで、全く動けなかった。
 ……代わりに、箒が地面に転がる音が響いた。

「美汐、今までごめん」

 彼は、胸元で声を立てずに泣いている美汐に謝った。
 今まで、沢山の時間を割いてしまったから。
 そしてその間、いきなり消えたままずっと連絡を取れなかったから。

「ど、うして……今更?」

 半分諦めていた美汐は、自然とそういう言葉を使っていた。
 もう、あれから……時間が経ち過ぎていたから。

「僕が妖狐になるために、随分と時間がかかっちゃったんだ」

 彼は、そう言った。




* 23 *



 彼との出会いは、物心付いたときから遊んでいた、ものみの丘だった。
 森の中で倒れている彼を美汐が見つけ、母屋まで背負って帰ったのだ。
 今から三年前の話だから、美汐が中学一年だったけれど、彼はその時小学生らしい小さな体躯だったので、簡単に背負うことが出来たのだ。
 単に空腹で倒れていたらしく、起きると貪る様にお粥を食べた。
 その時判ったのだが、彼はものを話すことが出来ず、そして記憶喪失だった。
 両親が彼の親を探す為に東奔西走してくれている間、美汐は彼とのコミュニケーションを図っていた。
 最初は怯えていたが、彼も慣れたらしく、自然に『話しかけて』来るようになった。

 そして、一月くらいした後……彼は消えたのだった。
 何を伝える事もなく、ただ、虚空に溶けるように。
 異変は、物が上手く持てなくなることに始まり、段々と反応も鈍くなっていた。
 美汐は何が起こったのか解らず、必死に原因とその対処を模索したが、結局何も出来ぬまま無情に時が過ぎた。
 そのまま彼は、高熱を出し……。



 落ち着いてから、抱きついたまま美汐は彼に訊ねた。

「……それで、貴方は何故今頃やってきたのですか? あれから、随分経つのに……」

 美汐にとって、言わざるを得ない疑問。
 何度聞いても、多分中々理解出来ないだろう。

 美汐は彼の様子を見る。
 痩せ身で男らしさというのは感じられないが、その代わり優しさを感じる目をしている。
 狐と言うと朝鮮中国辺りに沢山居そうな細目や糸目である気がするが、そうでもない。
 むしろ、童顔なので目は普通より大きいだろう。ただ、優しげに目を細めている事も多く、あまり気にならなかった。
 春先でまだ寒いというのにシャツの上に一枚羽織るだけの軽装で、彼自身は平然としていた。

「妖狐になるには力を沢山蓄えなきゃいけないんだ。正確には術を使えるようになった時点で妖狐なんだけど、僕は一度人間になる為に妖力を使ってしまっているからね……そのまま存在するのは難しかったから、一旦山の奥にある霊石に身を潜めたんだ」
「それで……充分蓄えたから下りてきた、と……」
「いや、もう少し足らないんだけど……」

 言葉を濁す彼の心中を察したのか、美汐が付け加えた。

「事情があるんですか?」
「……実は、僕の妹も僕と同じ事をしていてね……まだ全然足りないというのに、また会いに出かけてしまったんだ」

 彼は言いにくそうに告げた。
 無駄に死なせたくないというのも解るが、やはりそういう神聖なところを気軽に行き来するのは妖狐にとって恥なのだろう。

「じゃあ、その子を?」
「うん、連れ戻しにね。一応、大切な妹だし……」
「お名前は……?」

 そう、彼に再会してから絶対に聞こうと思っていたことがあったのだ。
 美汐は今頃になって思い出した。

「確か、こっちでは……真琴、って名乗ってたね」

 彼は、そう言った。




* 24 *




「そういえば、お名前はなんというんですか?」
「え、僕?」
「はい。結局、前回は名前を聞いていませんでしたから」

 彼は、言葉が話せなくて、そして文字が書けなかった。
 だから、意思疎通手段が身振り手振りと顔の表情だけだったのだ。

「そうだね……名前はないんだけど……じゃあ、稲倉云鬼(ゆうき)とか」
「稲倉……お稲荷さんですか?」

 暫く考えたあと、ふと気がついた様に美汐が訊く。
 あっさり見破られたことに、彼は落胆の様子を隠せなかった。

「……なんですぐに判るのかなあ」
「一応、ここは神社なので日本神話は他よりも少々聞き及んでいます」

 美汐が平然と言う。
 ちなみに、通称『お稲荷さん』は倉稲魂命(うかのみたまのみこと/別字体有)のことである。
 彼はそれを弄って付けたのだが……美汐の方が一枚上手だったようだ。

「じゃあ……どうしようかな」
「……下の名前だけ、漢字を替えましょう。そうすれば、それなりに違和感はなくなるでしょう」

 美汐の助言で、再度彼は考える。
 その仕種はどこか悠々としていて、その広さに美汐は引き込まれそうだった。

「うん……優しいに希望で『優希』にしようか」
「確かに貴方の雰囲気に合っていますが……何だか、女子の名前の様ですよ」

 彼の提案に、美汐が言う。
 確かに、『ゆき』と呼ばれそうな名前である。

「そうか……うん、でもいいや」
「いいんですか?」
「うん」

 本人がそうしたいというのに、他人がどうこう言うべきではないと判断した美汐は、暫く俯いたあと、じっと彼を見据えた。

「それでは……これからよろしくお願いします、優希さん」
「うん、僕もよろしく、美汐」

 優希はにっこりと微笑んだ。
 美汐も、それにつられて微笑んだ。

 ……この時、美汐は朝食の時間が来ていることに気付かないでいた。




* 25 *




「……複雑です」

 美汐はため息と同時に言った。
 今朝の出来事は、美汐にとって災難であった。
 あれから自分を探しに来た親に抱きついているところを見られ、散々説教された挙句に朝食を抜かれたのだ。
 まあ災難という意味では両親にとっても同じことで、娘が掃除から帰ってこないと心配してみれば見知らぬ男と抱き合っていたのだから、さぞかし心を痛めたであろう。

「まあ、人生いろいろあるよ」
「……元凶である貴方が言わないで下さい」

 再び深くため息をする、美汐。あと五分で家を出なければならないのだが、まだ授業の準備が終わっていない。
 そんな様子を見て、優希は声を掛けた。

「時間、ないの?」
「全然足りません」
「ふーん……」

 優希が頷く間に、美汐は準備を終えた。
 普段は揃えた後中身の確認をするのだが、今日はそんなことをする余裕がない。

「じゃあ、行ってきますね」
「あ、待って」

 手短に伝えて先を急ごうとする美汐を、優希が止めた。
  
「な、何ですか? 用事なら後で……」
「学校、連れて行ってあげるよ」
「……はい?」

 美汐がその意味を訊ねようとした時には、優希は既に部屋から消えていた。

「美汐ー」

 玄関の方から声が聞こえる。
 美汐が急いで行くと、のんびりと自分を急かす優希の姿があった。

「早く靴履いて。あんまり時間ないんでしょ?」
「はい。走ってぎりぎりでしょうか」

 そう言い終えて、美汐が立つ。
 そして、荷物を持ったとき――。

「じゃあ、行くよ」
「えっ……?」


 気がつくと、二人は大空の中にいた。

「学校って、どれ?」
「えっ? あ、あれ……」

 混乱している美汐に、優希は平然と学校の位置を訊く。
 思考能力が停止している美汐はとりあえず指し示すものの、今自分に何が起こっているか把握出来ていない。

「そっか」
「って、ちょ、ちょっと待って……」

 ようやく事態を把握出来た美汐が、優希を止めようとする。が、そんな事はもう遅い。
 紅蓮の炎――狐火に包まれて、高速度で学校に向かって突っ込んだ。

「き、きゃあああああぁぁぁっ!」

 普段の彼女からは考えられない程の悲鳴を上げながら、美汐は勢いよく落下していった。




* 26 *




「……金輪際、止めて下さい」

 一言、美汐はそう言った。

「やっぱり……急にやったのが問題だったかな?」
「やる事自体が、問題です」

 例え前置きされたとしても、普通の人間ならば拒否するだろう。何せ、安全具も何も無いスカイダイビングをした様なものだったのだから。
 落下するときは狐火に包まれて周りに見られないようにしたといってもこちらからは見えていた訳で、高速度で地面に突っ込むのは恐怖で涙も出なかった。
 それに、落下したところが体育館裏だったからいいものの、昇降口前や校庭だったらさぞかし周りの注目を浴びただろう。
 控えめな美汐としては、断固避けたい状況だった。

「んー、迷惑だったかな……?」
「……お気持ちはありがたいですが、私には刺激が強すぎました」

 先ほどの体験を思い出して、美汐は額を押さえながら少しよろめいた。
 その気持ち悪さといったら、ジェットコースターとフリーフォールを足した様なものかもしれない。

「じゃあ、遅刻しないようにしなきゃね」
「……誰のせいですか」

 美汐はもはや、怒る気にもなれなかった。

「じゃあ、私はもう行きますね。あんな思いまでして、遅刻してしまってはやりきれませんから」
「うん。僕はこれで帰るよ。放課後、僕に付き合ってくれる?」
「はい。特に用事はないので」
「美汐の家で待ってるよ」
「はい」

 そう約束して、二人は別れた。



「ふぅ……ちょっとやりすぎちゃったかな」

 特に悪びれた様子もなく、優希はそう呟いた。
 これくらいの力なら、多少安定していないこの体でも造作もなく引き出せる。
 その馴染み具合を確かめる意味でもこの行動に出たわけだが……ちゃんと、自分の思い通りに動いてくれるようでよかった。
 万が一暴走していたら……とは、怖くて考えられなかった。

「さて……制服着てないから、正門以外から出なきゃ」

 そう独り言を呟くと、小さな狐に化け、塀に登れそうな木を探して茂みに入った。
 イヌ科の狐は普通木登りが苦手だが、伝って塀に登るためなら妖狐になって発達した足で三角跳びをすればいい。
 軽々と塀に登ると、周りに人が居ないことを確認して、跳び下りた。

(さて……ん?)

 その時、ある匂いが優希の鼻をくすぐった。

(これは……真琴の匂い?)

 優希は迷わず、その匂いを辿っていく。
 やはり、狐の格好の方が鼻が利くようだった。

(走ってるな……反対側は、もう消えちゃってるか。まぁ、本人の匂いじゃないみたいだしな)

 そう考えると、真琴はもう誰かに拾われているという事になる。
 真琴が自身の願いを叶えたかどうかは知らないが、匂いがあるという事はまだ死んでないということだ。
 優希は少し、ほっとした。

 そのまま追いかけていくと……そこは、学校の正門だった。

(ここの生徒なのか)

 正門に近づくと……三人の男女が話している。

「こんなところで会うとは、奇遇だな」
「こいつが妙に起きなかったんだ」
「妙、って……何が?」
「……手首と肘の関節を極めてベッドに引きずり込んだのは誰だ」
「えっ!? わ、わたしそんなことしてないよっ?」

(見つけた)

 三人居ても、誰から匂いがするか、すぐに判る。
 何故なら……匂いと同時に、妖気も染み付いているからだ。

(あの男か)

 優希は、金髪の男を凝視した。




* 27 *




 ついて行っても仕方が無いので、優希は逆の方へ向かった。
 本人の匂いが霧散していようとも、保護している人間の匂いは残っていたのでそれを辿ることが出来る。

(……ここか)

 暫く辿り、優希はある家へ着いた。表札には『北川』と書かれている。
 美汐にはああ言ったが、予定より早く出会えそうだった。
 しかし……気になるのは、あまり感じられない妖気。

(やっぱり……尽きかけてるんじゃないか)

 はやる気持ちを抑え、妖気を辿ってどこにいるかを探す。
 玄関、居間、寝室……。

(……二階か)

 優希は庭の木に軽々と登ると、目星を付けた窓を見た。
 主が既に出かけたというのに少し開いた窓からは、微かに妖気が漏れている。

(うーん、ここからじゃ少し遠いなあ……)

 少し立ち止まったが、意を決めたように身をすくめて力を溜める。
 それと同時に窓へ一直線、焔(ほむら)が散ったかと思うと、優希はその火を踏み渡った。
 まるで、狐火の橋だった。

(さて……行くか)

 優希はそのままベランダに下りると、少し開いた窓から部屋に入った。


 中には、本当に小さな女の子が居た。
 生まれたての赤子よりも小さな、女の子。頭には耳、尻の辺りには尾が生えている。
 まさに、優希の妹……真琴に違いなかった。

「……お兄ちゃん?」
「久し振りだな……今は、真琴と呼べばいいのか?」

 狐から元に戻った優希と、驚きで目を見開いている真琴が、対峙した。
 二人はお互い硬直したまま、動かなかった。
 人間の姿同士で出会うのは、初めてであった。




* 28 *




「随分と、不味いんじゃないか?」

 先に口を開いたのは、兄の方だった。

「……うん、かなり」

 妹はそれに答えた。

「仕方ないな……力を分けてやるよ」
「お兄ちゃん、それで大丈夫?」
「何とか、だな」

 優希はにっこりと笑うが、実際そういう訳でもなかった。
 完全体ならまだしも、不完全な体である。
 ここで力を分け与えてしまっては、優希自身も危うくなってしまうだろう。

「一応、力を手に入れる目星は付いてるの。天使の力を見つけたのよ」
「天使の力? なんだそれは?」

 『天使の力』というものは、少なくとも妖狐たちの常識にはない。

「……相手は『天使』って呼んでるの。霊力の塊よ」
「霊力、ねぇ……そんなものが俗世になんであるんだ?」
「さあ……でも、チャンスじゃない。二人分位の体を持たせるのに充分な力よ」

 嬉々として語る真琴に対して、優希は苦い顔をしていた。

「あまりいい気はしないな……だって、僕らの力をまかなうとすれば、その力を持ってる精霊は消えるってことだろ?」
「よ、よく精霊って判ったわね」
「そんな驚異的な霊力を持った道具がこんな所にあるわけないだろ」
「それも、そうだけど」

 兄の言葉に、しゅんとなる真琴。

「しかし……僕らも消える訳にはいかない。無理に飛び出した所為で、もう霊石には戻れないし……」

 優希は困っていた。
 出来るならば自らの為に他を消すことなどしたくない。
 ……だが、一方で生き物は生きるために他を犠牲にしなければならないという事も解っている。

「今、その為にこの家の北川潤って奴に手伝ってもらってる。式神を使えるだけの霊力を渡したの」
「道理で、妖気が少なくなってる訳だ。……まぁ確かに、そっちの方が浪費が抑えられるな」

 手伝ってもらうと考えたときに、優希は美汐の事がすぐに思い浮かんだ。

「そうか……」
「当てがあるの? じゃあ、一緒に戦ってよ。戦力が欲しいときだから」
「ん……考えておく」

 優希には、色々考えるところがあった。
 なるべくならば、戦いたくない。
 だが、真琴の命――ひいては、自分の命を守るためにはそれしかない。
 だから、このときは……まだ、返事をすることが出来なかった。




* 29 *




「ふう……」

 北川は、帰る間もずっと、果たしてこれで良かったのか悩んでいた。
 栞が護ろうとしているもの……それ自体は、自分にとって『悪』ではない。しかし、自分の『正義』を通すためには奪わなければならない。
 ……だから、北川は悩んでいた。
 果たして、自分の行動が『正義』なのか。
 今日は火曜だから、今日を入れずに数えると四日しかない。
 それまでに判断し、決着しなければならなかった。
 北川にとっては戦術や技術の向上よりも、精神的な安定が重要であった。

「あ、お帰り〜」

 帰ると真琴が、身長より多少小さい位の肉まんを口いっぱい頬張っていた。
 耳と尻尾がひこひこ動いているのを見るからに、かなりご機嫌のようだ。

「ん……お前、その肉まんどうしたんだ?」

 北川は家族に真琴の事を伝えていない。
 何かと誤解されがちな彼のこと、妖精を飼ってるなんてばれたらどんな噂を立てられるか判ったものではない。

「んーと、お兄ちゃんに買ってもらった」

 北川の思考が暫く停止した。
 『兄』という単語は、主に血縁者に用いられるものだが、さて。

「……ごめん、もう一度」
「だから、お兄ちゃん」

 真琴の言葉は、北川の理解を遥かに越えていた。

「いやだから、誰だよ」
「ああ……お兄ちゃんが私を探しにきてくれたんだよ。で、わざわざ買いに行ってくれたの」
「どこから?」
「あそこから」

 北川の視線の先で大きく開け放たれている窓。
 何と言うか、泥棒上等な感じだ。

「どうやって?」
「狐の姿で狐火使って」

 普通、実演してもらわなければ想像など全く出来ないだろう。
 例に漏れず北川も、首を傾げたまま固まった。

「狐火に、乗って」
「……そんな事も出来るのか」
「真琴も、一応出来るよ」
「やらなくていい」

 今にもやりだしそうな真琴を抑え、北川は質問を続けた。

「で、その兄貴はどこに住んでるんだ?」
「詳しくは知らないけど、当てがあるみたいよ。手伝ってって言ったら、賛成はしてくれたけど何か悩んでたみたいね」

 それには、北川も心当たりがある。
 真琴の兄とやらも、北川と同様悩んでいるのだ。
 それしかないと解っていても、それが本当に正しいのか……上手く納得出来ていないのだろう。

「まぁ、何だかんだ言いながらも手伝ってくれるわよ。祐一と違って優しいから」
「え?」

 何だか、気になる単語を聞いた気がする。

「誰と違って、って?」
「え? 祐一よ。真琴の憎き相手」

 さて、物事を整理しよう……と北川は必死に頭を落ち着かせようとするが、混乱しっぱなしである。

(相沢と真琴は面識があるのか?)

 悩みが増えた。
 まさに、なんと言うか……世界は狭いものだなあ、とか現実逃避してみるが、まったく解決にはならない。

(しかも、こいつ言葉の割にはそんな憎そうじゃないし)

 割とそういうことには敏感だと自分で思っている北川は、真琴の行動をそう分析した。
 断定は出来ないが、微笑ましいという意味で子供らしい理論なのだ。

「……さて、四日で足りるかな」
「何のこと?」
「秘密」

 北川は、肩をすくめてため息をつくしかなかった。












その二へ